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ラダックの湖:静寂に心を映す旅の記憶

空と心が出会う場所

ラダックでは、道の終わりから空が始まると言われています。
この地の静けさは、空っぽではなく、何かで満ちていると。
それがどういう意味なのか、私は標高3,500メートルを超える山道を走り、ヒマラヤの黄金色の砂埃がバックミラーに舞い上がるのを見たとき、ようやく少しわかった気がしました。
この高地の湖へ向かう旅は、目的地ではなく、静かな気づきの始まりでした。

レーの町に到着して初めて吸い込んだ空気は、鋭くて薄くて、まるで高地の詩のようでした。
この町は、土壁の古い家と輝く仏塔が混在し、祈祷車が回るすぐそばにエスプレッソマシンがあるような、不思議な対比に満ちています。
けれど私の心はすでにもっと遠くへ向かっていました。
空を映す湖たちへ。心を映す湖たちへ。

その名前は、以前から読んだことがありました。パンゴン・ツォツォ・モリリツォ・カル——どこか子守唄のような響きを持つ言葉たち。
多くの旅行ブログでは、これらの湖は絵葉書のような写真で紹介されています。
でも、地元の人々は湖のことを、まるで生きている存在のように語っていました。
沈黙を守る者、神聖なものを映し出す鏡として。
私は観光客としてではなく、自然の「息づかい」に耳を傾ける旅人として、そこに行きたかったのです。

ヨーロッパで育った私は、アルプスの湖や地中海の海岸に親しんできました。
けれどここラダックでは、湖は遊び場ではなく、祈りの鏡です。
その美しさは派手ではなく、静かです。
色彩は主張せず、風にそっと揺れる祈祷旗のように、ゆっくりと移ろっていきます。

この湖たちにたどり着くまでの道のりは、決して簡単でも、早くもありません。
けれどだからこそ、その姿は手つかずのまま守られているのです。
この地では、風や雪、あるいは突然道路を塞ぐヤクによって、旅の予定が変わるのが当たり前。
でもその代わりに、何かが心に届きます。
峠に差し掛かったときの一瞬の静寂。
山の茶屋で出会った僧侶の笑顔。
空の下でドライアプリコットを手渡してくれた子どもの小さな手。

このコラムでは、湖そのものだけでなく、その周囲に広がる物語、静けさ、そしてそこから生まれる思いを、一緒に辿っていきたいと思います。
もしあなたが今、ヒマラヤの旅を夢見ているのなら、あるいはただ静かな時間を求めているのなら、きっとこの湖たちの中に、何かが映るはずです。

それでは始めましょう。
空と心が出会う場所で、旅そのものが目的地となる、その瞬間から。

india ladakh pangong lake 1600

パンゴン・ツォ:天の色が移ろう場所

初めてパンゴン・ツォを見たとき、息をするのを忘れました。
標高4,300メートルを超えるこの神秘的な湖は、ラダックの東端に広がり、チベットへと向かってシルクのリボンのように続いています。
どんな写真も、ドローン映像も、旅行パンフレットも、この生きているような美しさを伝えてはくれませんでした。
色が動き、静けさが語りかけてきて、私はただ立ち尽くしていました。空が水に流れ込むような、そんな光景でした。

この場所にたどり着くまでには、何時間もかかりました。
砂埃の舞うジグザグの山道を走り、毛むくじゃらのヤクたちの群れを抜け、雪をかぶった峠を越えて。
けれど、湖が姿を現した瞬間、それまでの苦労はすべて溶けて消えました。
パンゴン・ツォはただの湖ではありません。
それは儀式のようなものであり、毎日静かに繰り返される色と静けさの神聖な舞台なのです。

午前中、湖は明るいターコイズブルー。
まるで南国のラグーンのような色なのに、背景には茶色い岩山と雪をかぶった峰々がそびえています。
午後になると、その色は深くなり、濃いロイヤルブルーに。
そして太陽が沈み始めると、湖面は鉛色に、銅色に、そしてなぜかピンクに染まっていきます。
光は静かに錬金術のような変化を起こし、見るたびに違う湖がそこにあるのです。

多くの旅行者は、有名な映画「きっと、うまくいく(3 Idiots)」のロケ地を目当てに写真を撮りにやってきます。
でも私は、観光客のカメラの列から離れた静かな湖畔で、借りたウールのショールに身を包みながら、波紋が広がって消えるのを眺めていました。
風はラダックの言葉でささやき、野生のガンたちが空から舞い降りてきます。
私はただそこに座り、ただ存在していました。

湖の近くで、小さな錆びたやかんでチャイを売っている年配の男性に出会いました。
彼は微笑みながらこう言いました。
「湖に何かを変えられたようだね。」
その通りでした。
何かが静かになった。
自分でも気づいていなかった心のノイズが、湖の前でふっと消えたのです。
この高地の鏡の前で、私は自分の小ささと、同時に広がる無限さを感じていました。

パンゴン・ツォを訪れる予定の方に、ひとつだけ伝えたいことがあります。
この湖を“見に行く”のではなく、この湖が生み出す静けさを“感じに行ってください”。
荷物は軽く、心はゆっくりと。
そしてたどり着いたら、ただ座って、風の声を聞いて、静けさに身をゆだねてみてください。
きっと、旅が終わってもその湖は、あなたの内に静かに残ることでしょう。

なぜなら、パンゴン・ツォは地図の上の目的地ではありません。
それは、ひとつの在り方なのです。

Pangong Lake Ladakh Of Ever Changing Colours and Sparkling Waters

ツォ・モリリ:沈黙が歌う場所

パンゴン・ツォが壮麗で人目を引く存在だとしたら、ツォ・モリリはその静かで内省的な双子のような存在です。
標高4,600メートル近く、チャンタン高原の奥深くにたたずむこの湖は、主張することなく、静かにそこにあります。
心を鎮め、耳をすませた人にだけ、その深い美しさを見せてくれます。
ツォ・モリリは目で見るものではなく、心で感じる湖です。

レーからこの湖までの道のりは長くて厳しく、どこまでも広がる自然と向き合う時間でした。
人の気配はほとんどなく、空気はどんどん薄くなり、雲はぐっと近づいてきます。
途中、チベット野ロバの群れとすれ違い、朝焼けのやわらかな色に包まれた平原を越えていきました。
道が曲がるたびに、何かが静かに剥がれていくようでした。
それは音ではなく、自分の中にあった雑念だったのかもしれません。

湖の北岸にあるコルゾク村に着いたとき、私はまるで世界の終わりにたどり着いたような感覚を覚えました。
石造りの家々、祈祷車、そして湖を見下ろすひとつの僧院。
ここでは時間の流れが違います。
私はチャンパ族の家庭に滞在し、ヤクの糞を燃料にしたストーブのそばで体を温めながら、静かな夜を過ごしました。
外では風が谷を吹き抜け、空には星が果てしなく広がっていました。

ツォ・モリリの湖面は、ほとんど信じられないほど静かでした。
柔らかな銀青色の水面に、渡り鳥の足音や、遠くの僧院から聞こえる祈りの鐘の音がわずかに響きます。
ある朝、私は一人で湖畔を歩きました。
ウールのショールに身を包み、冷たい空気の中で白くなる息を感じながら。
カメラも持たず、目的も持たず、ただこの湖と向き合う時間。
そこには、何もないようで、すべてがあるような沈黙が広がっていました。

この湖は、チャンパ族にとって単なる水ではありません。
それは命であり、神聖な存在です。
彼らはこの地でカシミヤヤギを放牧し、湖の精霊に祈りを捧げ、祖先から受け継いだ物語を語り継いでいます。
パンゴン・ツォと違って、ここは観光地化されていません。
カフェもなければ、Wi-Fiの電波も届きません。
そして、それこそがこの湖の本質なのです。

ヨーロッパから来る旅人たちの中には、派手さや刺激を求めず、本物を求める人がいます。
そのような人にとって、ツォ・モリリはまさに魂の避難所です。
それは、誰かと共有するのではなく、自分の中に深く響く旅。
観光地では得られない、心の奥に触れるような体験です。

レーへと戻る道をたどりながらも、私は湖の声を背中で聞いていました。
それは風の音に混ざった、沈黙の歌。
決して忘れることはありません。
きっと、それを忘れてはいけないのだと思います。

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ツォ・カル:塩原に浮かぶ幻の美

ラダックには、沈黙が何千年も前から存在しているように感じられる場所があります。
風が秘密を運び、大地が遠い昔の海の記憶を宿している。
それがツォ・カル――「白い湖」と呼ばれる、塩の結晶が湖の縁を縁取る、消えかけた記憶のような場所です。
この場所を訪れる旅人は少なく、それがむしろ好ましいのかもしれません。
ツォ・カルは人を惹きつけるための湖ではなく、静けさと孤独のなかで自らを感じたい人のための場所です。

湖が見える前から、風景はすでに変わり始めます。
山々は遠のき、空は大きく広がり、道はガタガタと音を立てながら、近代的な時間感覚を拒むように進んでいきます。
遠くから羊飼いたちが分厚いウールに身を包んで手を振ってくれる。
ヤクたちが塩分を含む池のほとりで草を食む。
そして突然、ツォ・カルが姿を現します――蒼白で、広大で、幽玄な光を放ちながら。
まるで幻想の中の風景が現実になったようでした。

パンゴン・ツォツォ・モリリとは異なり、ツォ・カルは「映す」ことよりも「そこに在る」ことに意味があります。
標高の高い風に包まれるような存在感で、心に深く残ります。
この湖は、塩、時間、そして沈黙によって形作られています。
湖の水は部分的に塩水、部分的に淡水であり、境界線は目に見えないけれど、鳥たちはきちんと知っているようでした。
フラミンゴ、クロヅル、バーヘッドグースが羽ばたき、静寂な風景のなかで優雅に舞っていました。

私がたどり着いたのは夕暮れ前。
太陽が山の稜線に傾きかけていて、湖はキラキラ輝くのではなく、淡く光を放っていました。
聞こえるのは、自分の足元で塩がザクザクと音を立てる音と、遠くで羽ばたく鳥の音だけ。
湖畔には、古いキャラバンの骨や、白く漂白された枝が塩の中に半分埋まっていて、まるで夢の遺跡を歩いているような感覚でした。

近くの集落トゥクジェには、いくつかのホームステイと小さな僧院があるだけ。
空気はここでさらに冷たくなり、夜の冷え込みは鋭くなります。
私は何枚もの毛布にくるまりながら、バター茶をすすり、小さなストーブのそばで身体を温めていました。
年配の男性が、「この湖は昔より小さくなったけど、まだ生きているよ」と語ってくれました。
「今は違う形で生きてるんだ、記憶としてね。」

ヨーロッパの旅人の多くは、アルプスの牧草地や北欧の湖に慣れ親しんでいますが、ツォ・カルはまったく異なる詩を持っています。
それは牧歌的というよりは、どこか月のような、荒涼とした、根源的な美しさ。
万人向けではありません。
けれど、厳しさ、神秘、そして静かな崇高さを求める人にとっては、ここが帰るべき場所のように感じられるかもしれません。

ツォ・カルは愛されようとしていません。
ただ、尊重されることを望んでいます。
そして、耳を澄ませばきっと、返事が聞こえてくるでしょう――言葉ではなく、風と羽音と、足元で砕ける塩の音として。

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そこへ至る道:旅そのものが導くもの

ラダックでは、道は単なる移動手段ではなく、巡礼の一部です。
高地の湖へ向かう旅は、地球上でもっとも野生的で息をのむような景色の中を通り抜けます。
ここにある道は急ぎません。
ゆっくりと曲がりくねり、時には挑戦を与え、旅人の心を静かに整えてくれます。
そこには、この地の大地と自分自身について、何か本質的な気づきをもたらしてくれる道の力があります。

レーから出発して、マナリやスリナガルの古い交易路をたどるにせよ、そこにあるのは静けさの学びです。
パンゴン・ツォへ向かう道は、標高5,360メートルのチャン・ラ峠を越えます。
そこでは夏でさえ雪が積もり、風にはためく無数の祈祷旗が、まるで天と地をつなぐ糸のように揺れています。
軍のトラックが時折通過し、この土地が国境地帯である現実を思い出させてくれます。
そして空の端を突き抜けたかのような瞬間、突然、パンゴンが姿を現すのです――青く、果てしなく広がって。

ツォ・モリリへの道は、さらに長く、さらに孤独な旅になります。
途中で通るのは、チュマタンという温泉と崖にしがみつくように建つ僧院のある村。
そこを過ぎれば、チャンタン高原に入ります。
ここは遊牧民とそのパシュミナ山羊たちが暮らす土地。
沈黙はさらに深くなり、やがて湖が現れるとき、そこはもはや時間が違う世界です。
現代のスピードが溶け去り、何か古くて賢いものに包まれた感覚になります。

そして最後に、最も幻想的なのがツォ・カルへの道です。
モレー平原を横切るこの道は、まるで火星の地表を走っているかのよう。
風は自由に唸り、遠くでは塵の渦が踊っています。
何キロにもわたって人の気配はなく、空、塩、そして沈黙だけが広がっています。
ツォ・カルがついに現れるとき、それは到着というより出会いに近い感覚です。

ラダックの移動には、忍耐と計画が必要です。
道は荒れており、天候や軍事的事情で急に通行止めになることもあります。
地元のドライバーを雇うことは、安全面でも、土地の知恵に触れるという意味でも、とても大切です。
私が出会ったリグジンという男性は、ヌブラ渓谷の村の出身で、雪嵐や湖の精霊、ツォ・モリリで野生馬が夕日に向かって駆けていった話などを語ってくれました。
彼と走る道の一つひとつが、物語を紡ぐ瞬間になりました。

ヨーロッパの旅行者にとって、高速道路やよく整備された景勝ルートに慣れた目には、ラダックの道は全く異なるリズムを持って映るでしょう。
これらの道は、より多くのものを求めてきます。
時間、注意、そして受け入れる心。
でもそれと引き換えに、もっと深いものを与えてくれるのです。
道が瞑想に変わり、地図が記憶になります。

ラダックには、神聖な場所へ向かう高速道路などありません。
そこにあるのは、風に刻まれた山々と氷河に抱かれた谷を通り抜ける、くねくねと曲がった道。
そして、よく耳を澄ませば、この道たちは語りかけてくるのです。
たどり着く先の湖だけではなく、その道を踏みしめてきたすべての足音、蹄跡、祈りについて。

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映るもの、映し出されるもの:湖と心を写す旅

ラダックでは、湖はただ山を映すだけではありません。
そこに映るのは、あなた自身
心の静けさ、今この瞬間の在り方、そして内なる沈黙。
カメラを手にした旅人にとって、パンゴン・ツォツォ・モリリのような場所は、まさに夢のような構図を与えてくれます。
けれど、もし写真だけを目的にやって来たのなら、見落としてしまうものがあるかもしれません――レンズの奥で生まれる、もっと大切な映像を。

この地の湖は風景写真家にとって理想的ですが、大切なのは「何を」撮るかよりも「いつ」撮るかです。
朝の光は特別です。
山の稜線から優しくこぼれる光が、水面を金色に染めていきます。
夜明けの時間帯、湖は最も穏やかで、まるで鏡のように空を映します。
この瞬間こそが最も深い静けさに満ちていて、その写真は単なる画像ではなく、捧げ物のような意味を持ちます。

私はある朝、ツォ・モリリの湖畔にひとりで立っていました。
氷のように冷たい地面にしゃがみ込み、吐く息が白く漂っていました。
空には一羽のクロヅルが舞い、それが湖面に完璧に映っていました。
けれど、私はすぐにシャッターを切りませんでした。
まずはただ見つめ、耳を澄まし、光を感じました。
そしてようやく撮った一枚。
その写真は今、私の書斎に飾ってありますが、心に残っているのは画像ではなく、その瞬間の感覚――静けさ、光、そして意識そのものでした。

撮影のコツをひとつ。
広角レンズを使えば、この広大さをそのまま写し取れます。
日中の光は色を平坦にし、風も湖面を乱すため避けたほうがいいでしょう。
三脚を使えば、朝夕の柔らかな光を確実に捉えられます。
でも何よりも大切なのは、ゆっくり動くこと
風景に導かれるままに。
角度を追いかけるのではなく、静けさに目を向けてください。

そしてもうひとつ、カメラでは写せない「内なる反射」があります。
レンズを覗くのをやめ、深呼吸をしてみたときに、それは心に映り始めます。
私が夕暮れのツォ・カルで体験したのも、それでした。
塩に縁取られた湖の前でただ座っていたとき、私は空や風景ではなく、自分の中を見つめていました。
故郷のこと、置いてきた日常の喧騒、そしてこの瞬間にどれほど少ないもので満たされているか。
この湖たちは、風景を映すだけでなく、私たちが抱えているもの、手放したいもの、そしてこれからなろうとする姿をも映してくれるのです。

ヨーロッパからの旅人にとって、観光地の混雑や完璧な撮影スポットに慣れた目には、ラダックは特別な「空白」を与えてくれる場所です。
ここには、待つ時間があり、眺める余白があり、驚きを受け入れる心の静けさがあります。
写真に残すのは目に映るものかもしれません。
けれど、本当に写るのは、心がどのように変わったかということ。
その記憶こそが、本物の旅の余韻となって残るのです。

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心の中の湖:なぜ私たちはまた戻るのか

ある場所は、私たちの心にずっと残り続けます。
それは絵葉書やお土産としてではなく、心の中の小さな変化として。
ラダックの湖もそのひとつです。
旅が終わっても、それはどこかに染み込んでいて、石に染みる水のように、静かに心を満たしていきます。
外見は変わらなくても、内面では確かに何かが変わっています。
少しだけゆっくりと、少しだけやわらかく、少しだけ静けさを知るようになって。

ある日の夕暮れ、パンゴン・ツォの湖畔で過ごした時間を、私は今も思い出します。
湖は静まり返り、太陽は西の崖の向こうに沈みかけていました。
聞こえるのは、風に揺れる祈祷旗のかすかな音だけ。
私は岩に座り、冷たい砂に足を埋めて、湖面が青から金へとゆっくり移り変わるのを見ていました。
そのとき、私はもう旅人ではなく、何かを思い出した人のような感覚になったのです。
古くて、それでいて初めて出会うような何か。
そして、それはとても自然なものでした。

多くのヨーロッパの旅人にとって、ラダックの魅力は、その「異国らしさ」にあります。
荒々しい風景、高地の空気、そして根づいた精神文化。
でも、実はもっと深いところで私たちを惹きつけているのは、湖が私たち自身を映してくれるという事実かもしれません。
美しいものを求めて旅に出て、最終的に本当に見つけるのは、「自分が何者か」ということ。

これらの湖は、空だけでなく、私たちの落ち着かなさ、静寂への渇望、日常の騒がしさから離れたいという気持ちを映します。
都市では、時間がアラームとスケジュールで区切られます。
そんな日々の中で、ツォ・モリリの朝の沈黙を思い出すだけで、心がそっと整っていくのです。
自分の中にまだ残っている「静けさ」が、そこにあったことを思い出すように。

私は、フランス、スペイン、ドイツからやってきた旅人たちと話をしました。
彼らもまた、最初はトレッキングや写真撮影を目的にこの地を訪れたけれど、最終的には言葉にできない感覚を心に残して帰っていきました。
中には何度も訪れる人もいれば、静かにその体験を胸にしまい込み、ひっそりと生き方を変えていく人もいます。

ラダックにはこんな言葉があります。
「山が呼ぶのではない。沈黙が呼ぶのだ。」
私が何度も戻ってきたくなるのは、この湖たちの壮大さではありません。
なにも要求せず、ただそこにある沈黙が、じわりと心に染み込んでくるからなのです。
その沈黙は、証明しようとせず、でも確かに癒してくれます。

もし、いつかこれらの湖の前に立つことがあれば、耳を澄ませてください。
その語りは大きな声ではなく、時間をかけて語りかけてくるようなものです。
そのとき、あなたはまだ気づかないかもしれませんが、
その湖はきっとあなたの中に残り続けるでしょう。
呼吸のなかに、眠りのなかに、会話と会話のあいだの沈黙のなかに。
その湖は、またあなたを待ってくれているのです。

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実用的なヒントと静かな注意

ラダックの湖の美しさは、消費されるものではありません。
それはそっと近づくものです。
敬意を持って、謙虚な気持ちで、この場所が「現代の目的地」ではなく、「時の流れが異なる聖地」であることを理解した上で訪れる必要があります。
ここでは、訪れる前に知っておいてほしい、いくつかの静かな提案をご紹介します。
これはルールではなく、品のある旅の招待状です。

1. 時間をかけてください。
これらの湖は標高4,000メートルを超える場所にあり、高山病のリスクがあります。
レーで最低2日は滞在し、高度順応を行いましょう。
ゆっくり歩き、深く呼吸し、体の声に耳を傾けてください。
山は焦りません。あなたも焦らなくて大丈夫です。

2. 服装は極端な気候に備えて。
1日のうちに日焼けと凍えを同時に経験することもあります。
重ね着が基本。インナーは保温性のある素材、上着は防風性、帽子と手袋も必須です。
ツォ・カルでは7月でも夜は氷点下になることがあります。

3. 地元の人と過ごしてください。
大型のキャンプではなく、ホームステイやエコ・ゲストハウスを選びましょう。
地元の家族を支援できるだけでなく、ラダックの温かさを体感できます。
バター茶を飲みながら語らう星空の下のひととき、自家製のアプリコットジャムで迎える朝――
それは、どのガイドブックにも載っていない記憶になります。

4. 大地に優しく。
プラスチックは持ち込まず、再利用できるボトルを携帯しましょう。
特に高地ではゴミ処理の仕組みがないため、自分のごみは持ち帰ることが大切です。
これらの湖はとても繊細な生態系です。
落としたひとつの包装紙が、自然にとって深い傷となることを忘れないでください。

5. カメラを置く時間も大切に。
もちろん、写真は大切です。
けれど、最も美しい瞬間は、記録ではなく体験するものです。
パンゴン・ツォに光が差し込むあの瞬間、まずはレンズ越しではなく、自分の目で味わってください。

6. 聖地としての尊重を忘れずに。
ツォ・モリリのような湖は、チャンパ族にとって神聖な場所です。
泳がない、大声を出さない、スマートフォンで音楽を流さない。
歩くときは静かに、話すときも落ち着いて。
迷ったときは、地元の人の振る舞いを見て、それに従いましょう。

7. 情報と柔軟性を大切に。
天候、通行規制、許可証の有無など、事前の確認が必要です。
特に山岳地帯では、突然の雪や軍事的な事情で通行止めになることがあります。
予定通りに進まないことも、ラダックという時間の流れの一部として受け入れてください。

多くのヨーロッパからの旅人は、ラダックで自然を期待して訪れます。
でも、彼らが本当に出会うのは敬意という感覚です。
それは、準備の仕方、歩き方、耳の傾け方に現れます。

ここにあるのは、ただの場所ではありません。
それは生きた風景です。
そして、私たちが静かに歩くとき、その風景はそっと扉を開けて、私たちを沈黙のなかへ迎えてくれるのです。

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エピローグ:水面に残る余韻

ラダックを離れたあとも、湖はそこに残り続けます。
記憶の中だけでなく、日々の喧騒のなかでふと静けさを求めたときに思い出される存在として。
その記憶はパンゴン・ツォの黄金の光ツォ・モリリのささやく風ツォ・カルの幻のような静けさとなって、心に響きます。
これらは風景ではなく、そっと寄り添ってくれる存在です。
声は持たないけれど、確かにそこにいます。

レーの谷を飛び立つとき、山々はゆっくりと幕を引くように遠ざかっていきました。
私は最後にもう一度、湖を見下ろせないかと目を凝らしました。
けれど、見えたのは雲だけ。
そのやわらかな白に包まれたとき、ふと気づきました。
湖は見えなくても、感じることができるのだと。
すでにその風景は、私の中に刻まれていたのです。
呼吸の中に、思考の静寂に、空白の時間に。

私はヨーロッパに何も持ち帰りませんでした。
お土産も、石のかけらも、湖の水も。
ただ静けさの記憶だけを。
それは早朝の沈黙の中、会話の途切れたとき、セーヌ川やフィヨルド、あるいは雨上がりの水たまりに光が映った瞬間に、ふとよみがえってきます。
水は記憶します。
そして、私たちもまた、忘れずにいます。

もし今、あなたがこの文章を読んでいて、「行こうかどうか」迷っているなら、こう伝えたい。
湖を見るために行くのではなく、
その湖が映し出す「自分」を感じるために行ってほしいのです。
手放すために。
耳を澄ますために。
ラダックは便利さを与えてくれる場所ではありません。
けれど、澄んだ明晰さを与えてくれる場所です。
そこでは、余計なものが削ぎ落とされ、本当に大切なものだけが残ります。

すでに訪れたことのある人は――山々がまた呼んでくれるそのとき、戻ってきてください。
これから訪れる人は――沈黙が訪れる瞬間を、そっと待っていてください。
そのときが来れば、自然とわかるはずです。

なぜなら、ある場所は、一度訪れると、もうあなたを手放さないから。
それは水のように、静かに、永遠に、人生に波紋を描き続けるのです。

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著者について

エレナ・マーロウは、旅先で静けさと物語を見つけることを大切にする、ヨーロッパ出身のコラムニストです。
スコットランドの高地からノルウェーのフィヨルドまでを旅してきましたが、
彼女の心をとらえて離さなかったのは、ラダックの静かな湖でした。

エレナの文章は、読者に「どこかへ行く旅」だけでなく、「自分の内面を旅する時間」も与えてくれます。
彼女にとって、本当の旅とは、静けさの中でこそ始まるものなのです。

旅をしていないときは、スロベニアの自宅でミントティーを飲みながら、山の詩を読み、
北の空に浮かぶ雲をただ眺めるひとときを楽しんでいます。