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通常の道の先にある旅:ラダックの隠された魅力 ― スル渓谷・ドラス・チクタンを訪ねて

まだ誰も歩いていない道へ:知られざるラダックの谷を旅して

レーの町から西へと続く道は、パンゴン湖やヘミス、ティクセーの僧院といった有名な観光地を後にして進んでいきます。高地の澄んだ空気には、ジュニパーの香りが漂い、かつての交易路や忘れられた王国の記憶が風に混ざっています。この道の先には、ガイドブックにも載らないラダックの知られざる風景があります。曲がりくねった谷、静かな砦、そして旅人の記録のように風景に刻まれた物語。ここから始まるのは、ポストカードのようなラダックではなく、スル渓谷、ドラス渓谷、チクタン渓谷という、あまり知られていないけれど心を打つ土地への旅です。

ラダックは仏教文化の地というイメージが強いですが、これらの谷ではまったく違った文化が息づいています。イスラム建築がヒマラヤの風景に溶け込み、アザーンの響きが古いラダックの商人たちの祈りと重なって聞こえてきます。一面的なラダック像を覆すこのエリアでは、ペルシャとチベットの文化が出会い、カルギルの人々のもてなしが高地の寒さを和らげてくれます。

この旅は急ぎ足では味わえません。ヌブラやパンゴン湖のような写真映えする観光地と違い、ここでは立ち止まり、耳を澄ませることでこそ、本当の魅力が見えてきます。たとえば、スル渓谷への道は、まるで詩のように穏やかに流れ、渓谷をうねりながらスル川がエメラルド色に輝いています。北には、戦争と自然の厳しさに耐えてきたドラスがあり、静かな美しさを見せてくれます。そして、チクタンには時を超えて佇む砦があり、かつての王朝の栄光と争いの記憶が今も石に刻まれています。

ラダックはいつの時代も極端な場所でした。荒涼としているのに豊かで、寂しいようでいて生命に満ちている。でも、これらの谷を訪れて初めて、ラダックの本当の姿が見えてきます。有名な道ではなく、まだ整備されていない道の先にこそ、未知のラダックが待っているのです。

このコラムでは、これからそれぞれの谷を巡り、その風景、歴史、そしてそこに隠された物語をひも解いていきます。まずは、スル渓谷からご紹介しましょう。ラダックの荒野の中に突然現れる、緑のオアシスです。

スル渓谷:ラダックに宿る緑の心臓部

カルギルの町を離れると、風景は劇的に変わり始めます。ラダック特有の茶色く乾いた大地の代わりに、緩やかな草原や黄金色の大麦畑、そして春になると薄桃色の花を咲かせるアンズの木々が広がっていきます。ここはスル渓谷。ラダックの厳しい大地とは思えない、豊かでみずみずしい世界が広がっています。そしてその頭上には、ラダック最高峰のナン峰とクン峰が雪をかぶって静かにそびえ立ち、この緑の谷を見守っています。

高地砂漠の風景に慣れた旅人にとって、スル渓谷の風景はまるで別世界です。谷を流れるスル川は豊かな水を運び、その流れに沿ってアンズ畑や農地が広がり、そこで暮らす人々の命を支えています。パルカチク、タンゴール、パニカルといった村々は、どこも静かでゆったりとした時間が流れています。レーやヌブラのように観光化された地域とは違い、スル渓谷は今も手つかずのままです。何世代にもわたって続く生活が、ゆっくりと息づいています。

ヒマラヤの麓で咲き誇るアンズの花

スル渓谷で特に印象的なのが、アンズの果樹園です。春になると、谷は一斉に花開き、村全体がピンクや白のパステルカラーに染まります。アンズは見た目の美しさだけではありません。ここでは生活の要でもあります。何世代にもわたり、住民たちはアンズを干して冬の保存食にし、油を絞り、かつてはシルクロードの交易品としても利用していました。アンズの文化は、この山々と同じくらい長い歴史を持っています。

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ペルシャとラダックが交差する文化の地

レーやザンスカールの仏教徒の村と違い、スル渓谷ではイスラム文化が深く根づいています。この地域の多くの人々はシーア派のムスリムで、かつて中央アジアやペルシャからこの地を旅した商人たちの末裔です。その文化は、木彫りの装飾が美しい家々や、谷に点在するモスク、そして今も息づくスーフィーの伝統に見て取れます。

とはいえ、ラダックの地らしく、ここでも文化はぶつかることなく、自然と交わります。村の一角では仏教の祈祷旗が風にたなびき、そのすぐそばではモスクからアザーンが聞こえる。スル渓谷は、異なる文化が美しく共存するラダックらしさを、静かに語ってくれる場所です。

静けさの中にある冒険

冒険を求める人にとっても、スル渓谷は宝の山です。ラダックの中でも特に美しく、しかもまだあまり知られていないトレッキングルートがいくつもあります。中でも特に人気なのがナン・クン峰ベースキャンプへのトレッキング。氷河地帯や高山の牧草地を抜けていくこの道では、まるで世界に一人だけ取り残されたような静寂を味わえます。遠くには鷲が山を旋回する声だけが響きます。

もっと気軽に歩けるコースもあります。パニカルからパルカチクまでの道は、昔ながらの村や放牧地、そしてナン・クン山塊の絶景を楽しめるルートです。マルカ谷のような人気のコースと違って、この辺りの道は人もまばら。静かな山歩きを楽しみたい人には、まさに理想的な場所です。

時間の流れが穏やかな谷

スル渓谷は、せわしない旅を求める人には向いていません。この谷に必要なのは、忍耐と余裕です。岩の上に座って雲の動きを眺めたり、村の長老と塩入りのバター茶を何杯も飲みながら話をしたり、そんな静かな時間を味わえる人にこそ、この谷は本当の顔を見せてくれます。

北へ向かって道を進むと、風景は再び変わり始めます。緑が減り、空気は冷たさを増し、風景はより厳しくなっていきます。その先にあるのが、ドラス。極寒の地でありながら、歴史と美しさを持つ、静かで力強い谷です。

ドラス:地球で最も寒い町、そして最も温かなもてなし

緑豊かなスル渓谷を離れると、風景は一変します。草原は姿を消し、風に削られた岩山が現れ、空気はぐっと冷たくなります。標高約3,300メートルのドラスは、「地球上で2番目に寒い定住地」として知られています。そして、その過酷な気候とは裏腹に、人々の温かさが心に残る場所でもあります。

多くの旅行者は、カルギルやゾジラ峠へ向かう途中にドラスを通過します。カルギル戦争記念碑に立ち寄る人もいますが、それ以上先に進むことは稀です。しかし、この谷の本当の姿を知るには、少し足を止めてみることが必要です。戦争や寒さだけでは語りきれない、深い物語がこの地には息づいています。

戦地のイメージを超えて

ドラスと聞くと、まず思い浮かぶのは戦争でしょう。1999年のカルギル戦争の記憶が今も残るこの地には、犠牲となった兵士たちを称える戦争記念碑があります。切り立った山々のふもと、静寂の中に立つそのモニュメントの前に立つと、誰しも言葉を失います。

けれど、検問所や記念碑の先に進むと、まったく違うドラスが見えてきます。羊飼いや農民、詩人や語り部たちが暮らす、古くからの生活が続く谷。このドラスは、国境や戦争とは無関係に、はるか昔からこの地に存在していたのです。かつてバルティ族やペルシャの商人たちが行き交い、シルクロードの一部として栄えていた歴史も、この谷の静けさの中にひそかに残っています。

極寒の地に宿る温もり

ドラスの冬は厳しさで知られています。気温は氷点下40度以下になることもあり、世界でも屈指の寒さを誇ります。石と木でできた家々には、羊毛の服を何重にも重ねた人々の姿があります。風に刻まれた顔はどこか厳しくも見えますが、その目は優しく、強さと温かさを宿しています。

この地では、もてなしは「習慣」ではなく「生き方」です。旅人に温かい飲み物や食事を差し出すのは当然のこと。ブカリ(薪ストーブ)で暖められた部屋で、塩味の効いたヌンチャイ(バター茶)がふるまわれ、身体の芯から温まります。料理もボリュームがあり、ヨーグルトソースで煮込んだグシュタバや、チベット風のトゥクパなどが家庭の味として根づいています。

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夏に見せる、もう一つの顔

ドラスといえば冬のイメージが強いですが、夏になるとこの谷は一変します。6月から9月にかけて、雪が溶けて高山の花々が咲き誇り、草原は緑に染まります。もっとも美しく、かつ知られていないスポットのひとつがムシュコー渓谷。野花が咲き乱れるこの谷は、観光地化されておらず、まるで秘密の花園のようです。

青いケシやエーデルワイスが咲く斜面を、誰にも邪魔されずに歩く時間。風の音だけが耳に届き、ときおりヒマラヤアイベックスが姿を見せるだけ。そんな静かな時間が、ドラスの夏には流れています。

ゾジラ峠へ続く道

ドラスを離れるとき、多くの人が向かうのがゾジラ峠。標高3,500メートルを超えるこの峠への道は、世界でも屈指のスリルを味わえるドライブルートのひとつです。細く険しい山道は、断崖絶壁に沿って作られ、眼下には深い谷が広がっています。

ゾジラは、かつてラダックとカシミールを結ぶ重要な交易路でした。現在でもその役割は続いており、この峠を越えると、突然ラダックの荒々しい風景から、カシミールの針葉樹林と牧草地へと風景が変わります。まるで異なる2つの世界をつなぐ、境界線のような道です。

別れのときに見えるもの

ドラスは、派手な観光地ではありません。色とりどりの旗も、青く輝く湖もありません。でも、この谷の記憶は、旅が終わっても心に残ります。たき火を囲んで語られた話、笑顔で手を振ってくれた村人の顔、そして、ここで生きることそのものが持つ静かな強さ。

ラダックを本当の意味で知りたいと思うなら、ドラスは欠かせません。この地には、歴史と美しさ、そして人の温かさが詰まっています。旅はまだ終わりません。次に向かうのは、忘れ去られた砦と古代の王国の記憶が残るチクタンです。

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チクタン:忘れられた砦と時の記憶

スルがラダックの緑の楽園であり、ドラスが極限の地であるなら、チクタンは忘れられた王国です。ここには、時を超えて立ち尽くす砦や、昔ながらの村の暮らしがあります。カルギルのシャカル=チクタン地域にひっそりと佇むこの谷を訪れたことのあるラダック人さえ少ないかもしれません。でも、足を運んだ旅人は、この土地が心に残る特別な場所であることにすぐ気づくはずです。

レーやヌブラに見られる仏教寺院とも、カルギルに広がる軍の存在とも違い、チクタンは封建時代の記憶に彩られた地です。かつては王たちが勢力を争った政治の中心地であり、いまもその名残をとどめています。中でも目を引くのが、風に削られながら500年以上も佇むチクタン・フォート。静かな山の中で、その存在感は圧倒的です。

風化の中に残る威厳、チクタン砦

岩山の上に建つチクタン砦は、失われた時代の建築美を今に伝える場所です。16世紀に建てられたこの砦は、チベットとペルシャの建築様式を取り入れたバルティ族によって設計されました。石ではなく、泥レンガと木材を使って造られたその姿は、まるで自然の中に彫刻されたようです。

かつてはラダック最強の砦とも言われ、王や兵たちがここに集い、巧妙な防衛システムが機能していたと伝えられています。しかし、権力争いや侵略、裏切りにより、砦は放棄され、今では時間の重みを背負った遺構となっています。その姿は荒れ果てているにもかかわらず、静かな美しさに満ちており、「すべての栄華はやがて朽ちる」という言葉を思い起こさせます。

時がゆっくりと流れる村

チクタン村は観光化されていません。高級ホテルもなければ、体験型のアクティビティもありません。ここには、季節に合わせた昔ながらの暮らしがあります。夏は畑と家畜の世話、冬は家の中で語らいや祈りの時間。村人の多くはシーア派イスラム教徒で、中央アジアやペルシャとのつながりが今も色濃く残っています。

村を歩いていると、ひっそりと佇む木彫りの美しいモスクに出会うことがあります。仏教寺院のような華やかさはないけれど、谷の風景にすっと溶け込んだその佇まいには、深い精神性と職人の技が込められています。派手さではなく、静けさの中にある力。それがこの谷の魅力です。

失われた記憶を受け継ぐ人々

近年、チクタン砦の保存に向けた取り組みも始まりつつあります。歴史家や研究者たちは、この地を単なる遺跡ではなく、「生きた文化遺産」として捉えています。ただし、アクセスの悪さや資金不足から、修復は思うように進んでいません。

それでも、村の人々は砦の記憶を忘れていません。王や軍、詩人たちがこの場所で過ごした時代の話を、親から子へと語り継いでいます。彼らにとって、チクタン砦は単なる「廃墟」ではなく、「まだ息づいている王国」なのです。

チクタンへの道

チクタンを訪れるには、メインルートから外れる必要があります。カルギルから続く道は、僧院や草原、そして季節によって様々に表情を変える風景を通り抜けます。

  • アクセス: カルギルから約80km、車で約2時間。
  • レーからの場合: 距離は約230km、車で約6時間ほど。
  • ベストシーズン: 6月〜9月の夏季。道が開通しており、谷全体が花や緑で彩られます。

本物の旅人のための場所

チクタンは、気軽な観光には向いていません。ホテルもなければ、観光地化された「体験」もありません。ここは、忘れ去られた物語や、風に削られた石の静けさに耳を傾ける、本物の旅人のための場所です。

夕日がチクタン砦を黄金色に染め、谷全体に静かな余韻が広がるその瞬間、この砦はもう「遺跡」ではありません。これは、人々の記憶と共に生き続ける、時の証人です。

そしてこれで、スル、ドラス、チクタンという3つの谷を巡る旅は一区切りを迎えます。でも、物語は終わりません。ラダックの知られざる世界は、まだまだ私たちを待っています。

ごくわずかな旅人だけが知る、もうひとつのラダック

旅はよく、移動した距離で語られます。何キロ走ったか、いくつの峠を越えたか、有名なスポットをいくつ訪れたか。でも、スル渓谷、ドラス、チクタンを巡る旅は、そうした数字では測れません。それは、ラダックの知られざる場所への旅であり、旅の記録には残らない物語との出会いでした。地図に載らない道を通り、荒々しい景色を抜け、忘れ去られた文化と暮らしの中へと分け入る時間でした。

この谷々を巡ることで見えてくるのは、写真で見るような「ラダック」ではありません。仏教寺院エメラルドの湖、標高の高い峠とはまた違う顔。ここでは、イスラム文化が自然の中に溶け込み、戦争の記憶スーフィーの祈りが同じ空の下に存在しています。時代に取り残された砦が静かに佇み、古くからの暮らしが今も変わらず続いています。

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なぜこの谷々が大切なのか

旅がSNSの投稿やパッケージツアーに集約されていく今、スル、ドラス、チクタンのような場所は、その価値を静かに保っています。ここには観光客の行列も、記念撮影のベストスポットもありません。ただ、農夫が畑を耕し、村の古老が夕日を見つめ、砦の石が風にさらされる音だけが響く。そうした日常が、何よりも貴重な旅の記憶となるのです。

それでも、これらの谷は過去の遺物ではありません。今も人々が暮らし、伝統を守り続けています。スルで干されたアンズ、ドラスでふるまわれる温かなヌンチャイ、チクタンで語られる王の物語――それらはすべて、今も生きているラダックの一部です。

旅のためのヒント

これらの谷へ旅をしたいと感じた人のために、いくつかのポイントを紹介します。

  • 訪問のベストシーズン: 6月〜9月の夏。天候が安定し、道も開通しています。冬(12月〜2月)は極寒で、孤高の美しさがあります。
  • アクセス: 出発はカルギルから。そこからスル、ドラス、チクタンへと道が分かれます。タクシーや乗合バスもありますが、本数は少なめです。
  • 宿泊: 民泊や小さなゲストハウスが中心。家庭的な体験ができます。
  • 文化への配慮: この地域は仏教とイスラムの文化が共存しています。服装や言動には敬意を払いましょう。
  • 持続可能な旅を: ゴミを出さず、地元の商店や農家から物を買い、環境と地域社会に配慮した旅を心がけましょう。

まだ知られていないラダックへ

多くの人が訪れるラダックでは、これらの谷に足を運ぶ人はごくわずかです。チクタンの砦で風の音に耳を澄ませ、スル渓谷でアンズの木の下に立ち、ドラスで初雪を眺める――そんな体験は、ほんのひと握りの旅人だけが手にできます。

でも、もしあなたが知らない場所に心を惹かれるなら、人の少ない道を歩くことに価値を見出すなら、この谷々は間違いなく応えてくれます。観光地ではなく、記憶に残る土地。それが、ラダックの知られざる谷です。

道は、あなたを待っています。あなたは、その一歩を踏み出しますか?

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著者について

デクラン・P・オコナーは、世界のあまり知られていない場所と、そこに生きる人々の物語を追いかける旅のコラムニストです。彼の文章は、ただの観光案内ではなく、文化の深層と風景の静けさに耳を傾ける旅へと読者を誘います。