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地平線の向こうへ:ラダック秘境を歩いたひとりの女性の旅

地図の終わる場所から、旅が始まる

旅のはじまりにはガイドブックや予約番号、「必見スポット」のチェックリストがあるもの。でも今回の旅は、そうではありませんでした。

すべては、1枚の写真から始まりました。古びた写真の中、細い道が金色の崖に沿って続き、空には祈祷旗が風に揺れていました。場所の名前も、位置情報もなし。ただひとこと、「ラダック、1982年」。その写真が、私の奥深くに静かに入り込み、名前のない憧れを目覚めさせたのです。

数ヶ月後、小さな飛行機でレーへ向かう窓際の席に座っていた私は、雲海からそびえる山々を見下ろしていました。早朝の光が山肌を金と紫に染め、機体は薄い空気の中で揺れていました。胸の奥で不安とともに、確かな静けさが広がっていきました。私はついにたどり着いたのです。目的地ではなく、「知らない何かの境界線」に。

私がラダックに惹かれたのは、有名な観光地でも、快適さでもありません。その正反対——静けさ、孤独、そしてまだ誰にも語られていない物語を求めて来ました。冒険を求めたわけではありません。インターネットも温水も予定表も届かない場所で、ただ「静寂の中に身を置きたかった」のです。

女性が一人で旅をするということ、それもインド・ヒマラヤで。それは、ただ歩く以上の意味がありました。ヨーロッパで「東」を思い描くとき、それは遠くて神秘的なイメージ。でもラダックは絵葉書ではありません。そこには飾り気のない現実があり、息をするだけで、自分の古い部分をひとつずつ脱ぎ捨てていくようでした。

古い仏塔に囲まれたレーの地に足を踏み入れたとき、私ははっきりと感じました。この旅は、ブーツの足跡以上に、私の内側に深く刻まれていくものになると。

この物語は、ひとりの女性がラダックの秘境の谷を歩いた記録です。観光客でにぎわう有名なルートではなく、古い僧院と風の音しかない、忘れられた道を選びました。その途中で出会ったのは、氷河と時間が刻んだ風景だけでなく、自分の中にあった、もっと深く、もっと静かなものでした。

もしあなたも、どこか美しくて古くて、静けさの中に迷い込みたいと願ったことがあるのなら、どうか一緒に歩いてください。地図はここで終わります。でも、本当の旅は、ここから始まるのです。

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ヒマラヤのふところへ ― レー到着

レーの空港に降り立ったとき、私は「到着」の実感を求めていました。でも実際に感じたのは、不思議な静けさでした。まるで山々がじっとこちらを見ているような感覚。クラクションも、タクシー運転手の叫びもなく、ただ風が滑走路を抜けていき、標高3,500メートルの薄い空気が肌に触れるだけでした。

レーの空港は素朴で、小さな山間の拠点のようでした。それがまた魅力でもあります。ここでは、すべてが自然とゆっくりになるのです。高地では急げませんし、この地の文化そのものが、急ぐことを許しません。ラダックという土地は、呼吸も、心も、ゆっくりと整える場所です。

現地の運転手スタンジンさんが迎えに来てくれました。にこやかな笑顔と静かなうなずき。多くを語らず、私たちは無言のままレーの町の中心へと向かいました。道の隅には祈祷輪が回り、白く塗られた仏塔が静かに立ち、屋根の上には冬に備えた薪が積まれていました。

滞在の初日は、高度に慣れることに集中しました。でもそれは、単に肺を馴染ませるだけではありません。この地の光や空気のリズムに、心も同調していく必要があるのです。家族経営のカフェで何杯もバター茶を飲み、日干しレンガの古い家々を歩き、空の色が変わっていくのをぼんやりと眺めていました。

東南アジアのにぎやかな到着地や、ヨーロッパの整ったアルプスの町とは違い、レーには何の飾りもありません。ここにあるのは、土と祈りと、果てしない空。ひとりで旅をする女性にとって、ここには安心感があります。それは、やさしさに包まれた静かな安心です。困難と共に生きることを知っている場所だからこその、やわらかな強さなのだと思います。

この旅の初めは、まだ「歩く」ことではありませんでした。「聴く」ことから始まったのです。ジュニパーの葉が揺れる音、遠くの僧院から聞こえる読経、そして頭の中の考えがほどけていく音。村の女性たちがアンズの枝でかごを編み、老僧が片手で犬にエサをやりながら、もう片方の手で数珠を回す。これは観光ではなく、ラダックの日常でした。

ヨーロッパから訪れる人にとって、レーはまるで別の惑星のように感じるかもしれません。でも少し長く滞在してみてください。すると、不思議と懐かしさのようなものが湧いてきます。朝のゆるやかな時間や、ひとつひとつの動作の丁寧さに、あなたの心も溶け込んでいくでしょう。

そして、ちょうど慣れはじめたころ、山々が呼びかけてきます。声高ではなく、けれど確かに。「さあ、そろそろ歩きなさい」と。

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孤独への最初の一歩 ― 誰も歩かない道を選ぶ

レーで迎えた3日目の朝、窓の外には霜がうっすらと降りていました。町はゆっくりと目覚め、僧侶たちは寺の庭を掃き、ヤクは石畳の道を歩き、子どもたちは氷の上を飛び跳ねていました。その日は、マルカ渓谷へと私を案内する予定のガイドに会うことになっていました。でも、心のどこかで、私はその道を拒んでいました。

マルカのトレイルは美しいことで知られています。でも、それはあまりにも「知られている」道。写真に撮られ、記事になり、SNSで拡散され尽くした場所。私は、誰かの真似ではなく、自分自身の旅がしたかった。静かで、個人的で、まだ語られていない道を歩きたかったのです。

そんなとき、アンズのビスケットとチャイを囲みながら出会ったのが、ラダックの女性、ソナムさんでした。英語は少しだけ。でも、彼女の優しいしぐさと、台所の机に広げられた色あせた地図が、すべてを語ってくれました。彼女の指はリキルを越え、聞いたことのない村の名前をなぞっていきました。ヘミス・シュクパチャン、スムダ・チェンモ、ヤンタン。そこには僧院と川沿いの小道、鉱物の色で彩られた谷がありました。

それは、観光客がほとんど訪れないラダックのトレッキングルート。ツアー団体ではなく、羊飼いや巡礼者たちが使う道。風がまだ物語を運び、足音が谷に響く場所。私は迷うことなく、そこへ行くことにしました。その夜、私は静かに荷造りをしました。小さなバッグに、ノート、カメラ、そして好奇心だけを詰めて。

この知られざる道を選んだのは、勇気からではありません。心の奥の小さな声に従っただけでした。日常の音がすべて消えたとき、私たちの内側には、本当に進むべき道を教えてくれる声があるのです。特に、女性ひとりの旅では、「安全な道」を選びたくなるもの。でもラダックは、もっと深くへと優しく引き込んでくれる場所なのです。無理やりではなく、静かに、川が足元を導くように。

翌朝、夜明けとともにレーを後にしました。特別なことは何もなく、ただ砂利の上でブーツが鳴り、最初の坂道で息を切らしながら、私は歩き始めました。それは道を進むというよりも、自分自身のまだ知らない一面へと向かう一歩でした。

最後の電波が届かなくなった頃、私はなにかを手放したような気がしました。これこそが、私が求めていたもの。誰も歩かないラダックの道、風の音しかない谷の静けさ、そして孤独と向き合う、最初の本当の一歩でした。

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歩く瞑想 ― 女性ひとり旅がくれる力

ラダックの高地を歩き始めて最初の数時間で、思いがけないことが起きました——考えることをやめたのです。普段なら頭の中でぐるぐると回っているリストや迷いごと、比較の声たちが、歩くリズムとともに消えていきました。ひとつずつの足取りが、風景の一部となり、私は見る者から、その風景の中に溶け込んでいきました。

瞑想は、座って行うものだけではありません。険しい道を登るとき、高地の薄い空気に呼吸が浅くなり、体が「ゆっくり進むしかない」と言ってくるとき、そこにはもうひとつの瞑想があります。ヒマラヤでのマインドフルなトレッキングとは、ただの言葉ではなく、まさに生きる術そのもの。自分の息づかい、小さな石の感触、岩肌に映る光と影を感じ取るのです。

ひとりで歩いていると、すべてが鮮やかに感じられます。でもそれは「危険」への警戒ではなく、今ここにいるという感覚。村の人のふとした仕草、遠くの僧院から響く鐘の音、風向きが変わる気配。どれも、誰かと一緒にいたら見逃していたかもしれない小さな瞬間たち。

ヨーロッパでは、女性のひとり旅に対して「大丈夫? 寂しくない? 怖くない?」という声がついてまわります。でもこの場所では、そんな感情は消えていきました。ここで感じたのは「力」。それは大声で主張するようなものではなく、静かで確かな、自分で選び取る強さでした。歩く速さも、立ち止まるタイミングも、沈黙さえも自分のもの。

渓谷の道を歩いていると、古い緑の地衣類が岩を覆っていて、小さな小川が私のそばで囁くように流れていました。遠くには、ヤクを導くひとりの遊牧民の姿がありました。その動きは、何世代もこの地に生きてきた人の自然な所作でした。標識も、電波も、誰かのガイドもない。ただ、自分の感覚と、山が私を見守ってくれるという信頼だけ。

これは、ただのトレッキングではありませんでした。女性がひとりで旅することの持つ力を、深く感じる体験でした。毎朝、太陽とともに起き、靴ひもを結び、目的地を目指すのではなく、自分自身との対話の中を歩く。それが私の一日でした。ラダックに来たとき、「何かから逃げている」と思っていた。でも今わかります。逃げていたのではなく、「本当の自分に近づいていた」のです。

孤独の中には、不思議な力があります。そこには、曇りのない視点があります。特にラダックのような、厳しくも神聖な地で、女性がひとりで歩くとき、その静けさは自由そのものになります。それは誰かに与えてもらうものではなく、自分自身で見つけるもの。

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記憶の谷 ― 辺境の村々で出会った物語

歩くごとに、現代的な風景は姿を消していきました。道は狭くなり、やがて足跡だけが残る静けさに包まれていきました。そして、もう誰にも会わないと思ったそのとき、ヘミス・シュクパチャンという村が、まるで幻のように現れたのです。アンズの木々に囲まれ、白い壁の家々が並び、風にはヤクのバターの香りが漂っていました。

この村は、予定に入っていませんでした。ホテルの予約もなく、印刷された旅程表もなし。ただ、道の流れに導かれて、私はここへたどり着いたのです。家の前に座っていたおばあさんが笑顔で手を振ってくれ、その数分後にはヤク毛のショールに包まれ、鉄製のストーブの前で塩味のバター茶を飲んでいました。彼女の名前はパドマ。彼女の家は、ラダックの文化を静かに伝える、家族経営の小さなホームステイのひとつでした。

言葉はほとんど通じませんでしたが、私たちは笑顔と身振りで会話を重ねました。彼女はレーで働く子どもたちの写真を見せてくれ、私は母がフランスの田舎で撮った写真を見せました。年齢も国も言葉も違っても、母としての愛情や手放す苦しみは、互いに伝わるものがありました。

ヤンタンやスムダ・チェンモのような村では、物語は語られるものではなく、暮らしそのものとして存在していました。赤い僧衣の若い僧侶が、何も言わずに私の汚れたブーツを祝福してくれたり、風で頬が赤くなった少年が、石でろ過する氷河水の飲み方を教えてくれたり。農家の女性は、野生のアンズを石のローラーで押しつぶし、オイルにする方法を見せてくれました。これこそが、私にとっての文化的なトレッキング体験でした。派手ではないけれど、忘れられない瞬間。

夜になると、彫刻が施された天井の下で眠りにつきました。遠くで祈祷輪が風に回る音だけが響きます。ラダックの奥地にある村々は、ただの立ち寄り地点ではありませんでした。それは、記憶を刻む場所であり、忍耐と謙虚さとやさしさを教えてくれる先生のような存在でした。それは、セントラルヒーティングでは得られない、人の温かさでした。

ヨーロッパの舗装された道を歩き慣れた旅人にとって、このような「迷うことを選ぶ旅」は、とても新鮮です。便利さよりも、確かな出会いを選ぶ勇気。ラダックの秘境の谷は、目で見る風景だけではなく、心で感じる風景でもあるのです。手が荒れた人が、ためらいなくあなたを迎え入れてくれる——それだけで、世界は広く、やさしく思えてきます。

この谷で私は、言葉がなくても「家のように感じられる場所」があることを知りました。必要なのは、開いた心と少しの勇気、そして道が導くままに歩いていく意志だけです。

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内なる道 ― 発見、不安、そして癒し

3日目のトレッキング。名前のない尾根を越えたあたりで、体がついに悲鳴を上げました。ザックで肩は重く、膝は下り坂で悲鳴を上げ、頭には高度特有の重たい痛み。日陰も、休憩所も、ショウガティーを出してくれるカフェもありません。ただ太陽と岩と、そして私。

しばらく岩に腰を下ろし、静寂に身をゆだねました。でもその静けさは、最初の穏やかな静けさとは違い、自分自身と向き合わされる、ざらりとした沈黙でした。逃げ場はどこにもありません。自分自身からも。

ヨーロッパでは、不快さは避けるべきものです。柔らかなベッド、すぐ使える設備、見慣れた案内標識。でもここラダックでは、体の痛みも、心のざわつきも逃れられません。そして、それこそが、女性たちがこの地に惹かれる理由かもしれません。

これは「危機」ではなく、「転機」でした。私は気づきました。ヒマラヤの自然の中を歩くことが、本当の意味での癒しなのだと。それは詩的な言葉ではなく、体と心をリセットする現実のプロセスです。服だけでなく、期待や不安、見せかけの自信さえも脱ぎ捨てていく。山は、あなたが何者か、どれだけ稼いでいるか、どう見えるかには興味がありません。ただ、問いかけてきます。「ここにいるか? 今を生きているか?」

私はゆっくりと再び歩き出しました。痛みが消えたわけではありません。でもその痛みは、もはや敵ではなく、同行者のように感じられました。砂ぼこりの中に咲く小さな花に目が留まり、足取りにリズムが戻り、肩の痛みさえ「私には歩く力がある」と教えてくれていました。

この旅はもう、「次の村へ行く」ことではありませんでした。今この瞬間にいること、この身体と、この呼吸と共にあること。それこそが目的でした。ひとり旅の女性が必ず通る道。それは「崩れる瞬間」ではなく、「目覚めの瞬間」です。

ラダックのような奥深く神聖な土地で、女性がひとりで旅するということは、静かな変容のプロセスにほかなりません。それは劇的でも、映画のようでもありません。でも、その小さな深さこそが、本当の旅の意味です。心の奥を見つめる旅は、派手ではありません。でも、ずっと残ります。

次の僧院の鐘が谷に響く頃、私はひとつの境界を越えていました。見えないけれど、確かに存在する境界。そしてその先に待っていたのは、予約できない平穏。それは、ひとつひとつの足音と、呼吸の重なりの中でしか見つけられないものでした。

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標高4,000メートルの夜 ― 星空と内なる自分

最後の村を過ぎた風の吹きさらす高地にたどり着いた頃、空から光が消えていきました。昼間くっきりと浮かび上がっていた山々は、今や青、灰色、そして黒のグラデーションとなり、境界を失っていました。電気も街灯もないこの場所では、夜は夜そのもの。空を埋め尽くす星々が、その存在を惜しみなく見せてくれる世界です。

標高4,000メートルを越えると、すべてが研ぎ澄まされます。風の匂い、影の長さ、そして何よりも静けさが、身体の奥にまで染みわたってくるのです。私は寝袋に身を包み、テントの外へと出ました。頭上には天の川が流れていて、まるで空にこぼれ落ちた光の川。望遠鏡なんて必要ありません。オリオン、カシオペア、すばる——星たちは、まるで旧友のように名乗りを上げてきました。

私はそのまま何時間も空を見上げていた気がします。気温は氷点下に近づいていましたが、不思議と寒さは感じませんでした。かわりに心に広がっていたのは、畏敬の念。今という時代、こんな感覚に出会える場所は少ないかもしれません。これはただの絶景ではなく、星との対話のようでした。

ラダックをゆっくりと旅するということは、名所を巡ることではありません。この土地に身をゆだね、忘れていた感覚を思い出すこと。なぜ多くの人がこのヒマラヤの片隅に惹かれてくるのか。風景そのものよりも、その風景が心に及ぼす静かな力。それが理由です。

見上げているうちに、心の中のざわめきは静かになっていきました。締切も、人からの評価も、何かを証明しようとする焦りも消えました。あるのは、地球の呼吸と、星々の会話。私は初めて、自分が世界の一部であることを、深く感じていたのかもしれません。

この一夜は、私にとってヒマラヤの本当のネイチャーリトリートでした。ガイド付きの瞑想も、ヨガマットも、ラグジュアリーな施設もいらない。ただ、そこに「いる」こと。それがすべてだったのです。

つながりを求めている人へ——通知やWi-Fiではなく、言葉にならない何かとのつながりを探しているなら。ラダックでの精神的な旅は、その入口になってくれるかもしれません。それはマントラから始まるのではなく、ふとした瞬間の気づきから始まるのです。

テントに戻るころには、私は何時間もひとことも発していませんでした。でも、今までで一番「分かってもらえた」と感じていました。

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帰路につく ― 変わった私が戻る場所

レーへ戻ったとき、何かが変わっているのを感じました。ほんの数日前に歩いていた同じ通りなのに、風景が違って見えたのです。実際に変わったのは町ではなく、私自身でした。荷物は軽くなったけれど、心は重く、いや、むしろ満ちていました。出会い、感じ、変わったものが、そこにしっかりと詰まっていたからです。

ゲストハウスに戻り、柔らかな布団と温かいシャワーに包まれているはずなのに、私が恋しかったのは、あの高地の夜の静けさ、朝のヤクの鈴の音、ジュニパーの煙が立ちのぼる匂いでした。太陽とともに歩き始め、星空の下で眠る、あの旅のリズムが、私の中に深く染み込んでいました。

出発前に出会った女性が、通りですれ違いざまに言いました。「あなた、表情が変わったわ。穏やかになった。」私は微笑みましたが、何と答えればいいのか分かりませんでした。風景が、自分の中を静かに変えてしまったなんて、どう言葉にすればいいのか。

ラダックを旅した女性たちの物語は、決して派手ではありません。むしろ、静かな革命のようなもの。一歩ずつ、ゆっくりと変わっていく。私は高峰を登ったわけでも、記録を更新したわけでもありません。ただ、深く耳を澄ませ、ひとりで歩き、そして強くなって帰ってきたのです。声を上げるような強さではなく、地に足のついた、しなやかな力として。

これからラダックへ旅立つことを考えている女性へ——とくにひとりで行こうとしているあなたへ。本当のインスピレーションは、ガイドブックには載っていません。それは、予定外の瞬間に訪れます。通りかかった道、誰かの差し出してくれたお茶、思わず選んでしまった峠、そして静けさの中でふとよみがえる自分自身との再会。

もちろん、実用的なこともあります。いい靴を用意して、水は多めに飲んで、高山病には気をつけて。高地トレッキングの基本は、どのブログでも教えてくれます。でもこの地が教えてくれるのは、感覚の再起動。乾いた空気が思考を澄ませ、ただ歩くという行為が、世界との静かな会話になるということ。

飛行機に乗ってレーを後にするそのとき、私はただの土産以上のものを持ち帰っていると感じていました。世界の見え方が、そして自分の見え方が、変わっていたのです。少しゆっくり、少しやさしく、そして確かに強くなって。声に出さずとも、それは歩き方や言葉の選び方、誰かの話に耳を傾ける姿勢に、静かに現れていくのだと思います。

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実践的な知恵 ― 自分だけの秘境を歩きたい女性たちへ

旅が終わると、物語だけが残ると思われがちですが、本当に心に残る旅は「知恵」も与えてくれます。それはパンフレットには書かれていない、小さくても確かな実感。もしあなたが、ラダックの静かな谷を、特にひとりの女性として歩いてみたいと考えているなら、このページが小さな道しるべになれば嬉しいです。

まずは直感を信じてください。ラダックは、女性のひとり旅にとって最も安全な場所のひとつですが、それでも最も頼りになるのは、自分の感覚です。道に違和感を覚えたら、待ちましょう。誰かに不安を感じたら、離れましょう。そして、心地よい村に着いたら、ぜひもう一泊してください。この旅は、GPSよりも感覚に導かれるものです。

荷物は軽く、でも賢く。高地の旅は想像以上に過酷です。荷物はあなたの味方であるべきで、負担になるべきではありません。履き慣れた登山靴、氷河の水を浄化できるフィルター、夜の寒さに耐える寝袋、そして電波がなくても旅の記録を照らしてくれるモバイルバッテリー。必要なものは意外とシンプルです。

初めての人には女性限定のトレッキングに参加するのもおすすめです。または、女性ガイドが案内するヒマラヤの旅をサポートする団体とつながるのも良いでしょう。それは、安心や便利さだけでなく、同じ志を持つ仲間との出会いにもつながります。

そして、土地への敬意を忘れないこと。ラダックは、とても繊細な場所です。一歩一歩が、環境に影響を与えます。エコに配慮したトレッキングを選び、ゴミは持ち帰り、使い捨てボトルを避け、宿泊はホテルよりもホームステイを。そこには人のぬくもりがあり、暮らしそのものに触れられます。

何よりも、「ゆっくり旅すること」。山頂を目指すことでも、谷を次々と越えることでもありません。ラダックの魅力は、その「止まる静けさ」にあります。風が「今だよ」と教えてくれるその瞬間に、立ち止まる勇気を持ってください。旅を「移動」ではなく、「意味」に変えるために。

これは、人生の分かれ道に立っているあなたへの手紙です。「もう遅いかもしれない」「危ないかもしれない」「遠すぎるかもしれない」と思っているあなたへ。大丈夫です。ラダックは、決して華やかではないけれど、深い静けさであなたを迎えてくれます

ブーツの紐を締めて、ザックのジッパーを閉じて、一歩踏み出すだけでいいのです。その先には、まだ誰も知らない谷が広がっています。そして、その谷は、あなたが歩き出すのを、そっと待っています。

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結びのことば ― 地平線は鏡

ラダックへ来たとき、私は何か遠くを追い求めていました。ある場所、ある感情、名前のない自由の記憶。地平線の先に、まだ知らない何かがあると信じていました。そして実際に出会ったのは、予想していたものとは違うギフトでした。その地平線が、私の中を映し出す鏡になるとは、思ってもいなかったのです。

山々は、ただそこにあるだけではなく、私を照らし出してくれました。谷は、果てしなく広がっているようでいて、むしろ私の心の奥深くへと通じていました。登った尾根、渡った川、星の下で過ごした夜、それらすべてが、私の中にある「まだ知らなかった自分」を呼び起こしてくれたのです。

今この言葉を読んでいるあなたへ——特に、旅に出ることを迷っている女性へ。あなたにはその力があります。完璧でなくていい。勇敢でなくていい。ただ一歩、踏み出してみてください。道は、驚くほどのやさしさで、あなたを迎えてくれます。そしてその静けさは、あなたの中にある恐れの声よりも、ずっと強く響いてくるでしょう。

私がラダックで見つけたものは、ただの「ひとりの時間」ではありませんでした。それは視点の変化でした。世界は広く、美しく、そして思っていたよりも静かであるということ。そしてその静けさの中でこそ、私たちは自分自身の声を、もう一度聞くことができるのです。

だから、あなたがどこにいても——パリでも、プラハでも、ベルリンでも、リスボンでも——知っていてほしい。ヒマラヤは、遠い夢ではありません。ラダックの秘境の谷は、現実にそこにあります。ただ「見る」ためではなく、「感じる」ために。旅の終わりに待っているのは、終点ではなく、静かな始まりなのです。

そう、地平線は、私たちのゴールではありませんでした。それはずっと、私たち自身を映す鏡だったのです

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著者紹介:エレナ・マーロウ

エレナ・マーロウは、ヨーロッパ出身のトラベルコラムニスト。世界の奥地を旅し、地図に載らない物語を歩きながら綴っています。

彼女が書くのは、ガイドブックのコピーではなく、埃まみれのブーツで歩いた道、忘れられた谷のホームステイで見た暮らし、そしてバター茶の染みがついた旅ノートから生まれる言葉です。

文化人類学を学び、静けさに心を傾ける彼女のコラムは、特に女性読者に向けて、外へ向かう旅と、内へ向かう旅をつなぐような言葉を届けています。

旅に出ていないときは、フランスアルプスの石造りの小さな家で、ハーブを育て、ろうそくの灯りのもとで文章を紡いでいます。

エレナの物語は、速さではなく静けさを、消費ではなくつながりを、そして「そこにただいること」の美しさを大切にしています。