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ザンスカール山羊の大移動に同行する旅 | ラダック遊牧民との体

旅の始まり──ザンスカールの中心部へ

世界が静寂に包まれ、山々が音ではなく風で語りかけてくる場所があります。インド北部の奥深く、ラダック地方のはずれにひっそりと広がるザンスカール。この谷は、時間に忘れられただけでなく、まるで時間そのものが手を触れていないような土地です。そして、毎年夏になると、ここでは静かな壮観が始まります。ザンスカールの谷を横断する山羊の季節的な移動。何世代にもわたる遊牧民たちが、高山の峠を越えてこの移動を導いてきました。

彼らとともに歩くということは、地図や国境よりも古い物語の中に入っていくことです。ここには道路も、次の曲がり角に待ち構えるカフェもありません。あるのは乾いた大地の匂い、遠くで響く蹄の音、そして移動の暮らし──この言葉は「動くこと」以上の意味を持っています。土地を家族のように知り、そのルールに従って生きることなのです。

私の旅はザンスカールの行政中心地パドゥムから始まりましたが、「行政」という言葉がここに存在するのは場違いに思えるほどでした。道はかろうじて通行可能で、電気も不安定。それでも、私は快適さを求めて来たのではありません。つながりを求めて、ここに来たのです。

最初に出会った遊牧民、ソナムは、風にも冬にも鍛えられた笑顔で迎えてくれました。彼の山羊たちはすでにそわそわしていて、数十頭の白やまだらの山羊たちの蹄が地面を蹴る音が辺りに響きます。空気には期待が漂い、私は知りました──これは単なるトレッキングではない。これは長く続く儀式の始まりなのです。ザンスカールの遊牧民とともに、夏の放牧地を目指す移動の旅が、静かに始まろうとしていました。

私がもっとも心を打たれたのは、山々の壮大さではありませんでした。もちろん、それらは神の彫刻のように周囲にそびえていましたが、本当に印象的だったのは暮らしのシンプルさでした。肩にかけた手織りの袋、夜明けに分け合うバター茶、人と動物との無言の理解、そして常に「動き」があること。足を一歩ずつ前に出し、鈴の音がひとつ、またひとつと続いていく。気づけば、私はその行列の一部になっていました。

自撮りや名所ではなく、何かもっと深いものを求める旅人にとって、道はここから始まります。この旅は一般的なガイドブックには載っていません。でも、本物の田舎の暮らしに触れる旅を望むなら、この山羊の移動は、太古から受け継がれてきた暮らしのリズムを映し出すレンズになるのです。ただの山羊の話ではありません。これは自然との調和、生き抜く知恵、伝統、そして人間が本質的に持つ「移動したい」という欲求を体感する旅なのです。

こうして、私たちは歩き始めました。氷河に削られた谷へ。まだ冬眠している川を越えて。時間がゆっくりと流れ、すべての瞬間に意味がある風景へ。旅の始まりとは、再び歩くことを学ぶ場所なのかもしれません──謙虚さと忍耐、そして心を開いて

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遊牧民と歩く──動きの一日

ザンスカールの朝は、他のどこよりも静かに始まります。強く押し寄せてくるのではなく、遠くの火から立ちのぼる煙のように、ゆっくりと一日が明けていくのです。最初に動き出すのは山羊たち。その鈴の音が、谷に静かに響き始めます。そして、一日は「動き」と共に始まるのです──目覚まし時計もクラクションもない、もっと古く、もっと静かな始まりです。

太陽が稜線を金色に染めるころには、ソナムとその家族はすでに出発の準備を整えています。荷物は多くありません。毛布はきちんと巻かれ、お茶の葉は布袋に、山羊用の塩も小さな袋にしまわれます。テントをたたむ必要もなく、毛織物のタープと祈りの石をそっと動かすだけ。すべてが丁寧に、ゆっくりと、迷いなく行われます。これがザンスカールの移動生活。そのリズムには、神聖さすら感じられます。

日の出とともに、私たちも歩き始めました。群れはまるで生きた川のように前へと進み、私はその流れに身をゆだねます。ときには先頭に、ときには中央に、そしてときには立ち止まって景色に心を奪われ、最後尾に。見上げれば、風に乗って飛ぶ鷹、遠くには氷河が光っています。空気は薄く、けれど身体全体で呼吸する感覚を覚えるのです。

私たちは、激しく流れる川にかかるつり橋を渡り、砂利と岩くずの斜面を登ります。道が消えたように見える場所では、山羊の蹄こそが私たちのガイドになります。人の手がほとんど触れていない大地を進むにつれ、ここが観光ではないことを肌で感じます。この旅は、「行くこと」ではなく「共に歩くこと」。風、地形、草の香り、それらすべてが行くべき道を教えてくれます。

昼ごろになると、私たちは一息つきます。山羊たちは香草が生える斜面に散らばり、ソナムの10歳の娘が小さな火をおこしてバター茶をいれます。その眼差しは、年齢を超えた深さをたたえていました。ここでは、子どもたちは文字を学ぶ前に、土地を読む術を学びます。山羊の足跡を追う力、影で時刻を知る知恵、風の中で火を絶やさずに保つ技術。それは、教科書のない学校で受け継がれているのです。

こうした時間の中で、ザンスカールの遊牧民とともに歩くことの本質が見えてきます。それは距離ではなく「耐える力」。目的地ではなく「つながり」。外から来た者にとって、この旅は「訪問」ではなく「見届ける」こと。そして、身体が動きに慣れるにつれて、心も静まっていきます。自分の世界のノイズが消えていき、ただ歩く、ついていく、そこにいるということが、こんなにも満ち足りたものになるのです。

太陽が西へ傾くころ、一日は終わりを迎えます。平らな土地がその夜の寝床となり、山羊たちは身を寄せ合い、火が灯されます。ラダックの高地を渡る山羊の大移動。それは脚に、肺に、そして何より心に残る旅です。新しい筋肉が生まれるような感覚。ゆっくりと、けれど確かに、内側に力が宿るのです。

移動しながらの暮らし──ザンスカールの遊牧生活

縄や羊毛、そして記憶だけで組み立てられ、また解体される住まいを見ると、心が深く揺さぶられます。ザンスカールでは、「家」という概念は場所に縛られていません。家は背中に、かごの中に、そして土地のリズムとともに生きる人々の心の中にあります。遊牧民たちとともに歩くことで、私たちは忘れかけていた自由のかたちを目の当たりにするのです──太陽と草と季節に従って動いていく家のかたちを。

彼らのシェルターは、編んだヤクの毛で作られ、木の支柱で支えられています。その木の棒は、移動中には杖としても使われます。夜になると、火のそばに毛布を広げて眠り、石を丸く並べて炉を作ります。電気も家具もありません。内と外の境界さえない空間。それでも、そこには確かに安心感と「場所」の感覚がありました。山羊たちは近くで身を寄せ合い、子どもたちは小石で遊び、大人たちは火を囲んでバター茶を飲んでいます。

ある夕暮れ、谷が金色に染まりゆく中、私はソナムの妻に「あなたにとって、家とは何ですか?」と尋ねました。彼女は山々を見つめ、その後、棒を片手に山羊を追いかける娘に視線を移しました。そして、こう微笑みながら言ったのです。「空が見えて、動物たちの声が聞こえる場所が、私たちの家です」。それ以上の説明はいりませんでした。住所も契約もなく、ただ空と音だけで成り立つ、彼女の真の住まい。

この家族の子どもたちは、学校に通う前に生きる術を学びます。迷子の山羊を足跡で追う方法。影の角度で時間を知る術。風の中で火を絶やさない知恵。ヨーロッパの10歳の子どもたちがスマートフォンで遊んでいるころ、ここザンスカールでは、同じ年齢の子どもが一群の山羊の世話を任されているのです。これはロマンではなく、日常。静かで誇り高い現実です。

遊牧家族の中での役割は流動的ですが、根は深く張っています。女性たちは移動するキャラバンの静かな要として、食事を準備し、物資を管理し、最も若い山羊を丁寧に世話します。年長者たちは物語と祈りを、働き盛りの世代は群れと未来の重みを担います。この世代間の調和こそ、私がこの暮らしで最も感銘を受けたものです。一人ひとりが必要とされ、一つひとつの仕事に意味がある。

私たちが「ミニマリズム」と呼ぶような暮らしを、彼らはただ「生きること」と呼びます。過剰なものは何ひとつなく、運ぶものすべてが必要なものだけ。すべての行動には意味があり、余計な動きはありません。そのシンプルさの中にこそ、本当の豊かさがあるのです──お金ではなく、澄んだ意識の中に。

もし、あなたがラダックの寺院や峠を越えた先に、より深い出会いを求めるなら、ぜひ遊牧民と歩く旅を考えてみてください。そこには、ただ土地を移動するのではなく、自分の中の何かを動かす旅が待っています。「快適」の定義を見直し、「家」の意味を問い直し、その知恵のかけらを、お土産ではなく、心の種として持ち帰ることができるはずです。

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この旅が特別である理由

世界には、絶景を売りにするトレッキングがあります。冒険を約束するもの、文化に少し触れるだけのもの。でも、ザンスカールの山羊とともに歩く旅は、そのどれでもあり、そのどれとも違います。観光客向けに整えられていない、本物の暮らしに入り込む体験──それこそが、この旅の特別さです。

たとえば、マルカ・バレーやチャダル・トレックのような有名なルートでは、宿泊場所も食事もあらかじめ決まっていて、ある程度の快適さが保証されています。しかしこの旅には、決められた日程も、決まった道もありません。天候が変わればルートも変わる。山羊が体調を崩せば移動は遅れる。全てが、その場の判断と自然の声によって導かれるのです。

この道で出会ったヨーロッパの旅人たちの多くが語っていました。「観光に疲れた私たちに、ようやく本物がやってきた」と。焚き火の煙に包まれ、ほこりまみれの服のまま、無言で手渡されたバター茶──その瞬間、人は観光客ではなく「その場所の一部」になります。

また、この旅には「自分を主張する」要素がありません。山頂を制覇するわけでも、スピードを競うわけでもない。群れの歩みに合わせて進む──それがすべてです。ゆっくり、確かに、一歩一歩。そこには、日々の速度に疲れた心を癒す力があります。見過ごしていた音、風、影が、再び意味を持ち始めるのです。

もっとも心を打たれるのは、この旅に流れる「継続」の力かもしれません。この道は、何百年も前から毎年歩かれ続けてきました。今、あなたが歩いているその道を、昔の人も歩いていた。そして今でも、それは生きている。過去の遺物ではなく、呼吸し、変化し、受け継がれている営みなのです。

もし、地域社会に根ざしたツーリズムを探しているのなら、この旅はまさにその理想形です。仲介業者を通すことなく、支払った費用がそのまま家族の生活に役立ちます。山羊の飼料、冬の毛布、子どもの学用品。それは金銭以上の、信頼と時間と文化の交換です。

だからこそ、この旅は普通のトレッキングではありません。記念写真のない道。でも、深く身体と心に残る記憶があります。長い旅から帰り、靴を洗い、荷物をしまったあとも、心のどこかで鈴の音が響いている──そんな旅です。

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レンズ越しの旅──写真家の目で見る移動

旅には、体験すべきものもあれば、切り取るべき瞬間もあります。ザンスカールの旅は、その両方が重なり合う稀なものです。山羊の移動には、息をのむような静けさと力強さが同時に存在していて、思わずカメラに手が伸びるのです。でも、ここでの写真は、スナップショットではありません。風景が語りかけてくるのを待ち、山羊の角が空と重なる瞬間を見つけ、つながりを写し取るためのレンズなのです。

ザンスカールの山羊の移動を撮影するというのは、コントラストの中に美を見つける行為です。白く輝く氷河と、茶色い山肌を進む山羊。断崖のシルエットと、そのふもとで歩く羊飼いの姿。夕暮れ時、舞い上がる土埃が金色に変わり、大地が映画のワンシーンのように輝く瞬間。動きがありながら、そこには深い静けさもあります。混沌の中に、規律があるのです。

もっとも美しい瞬間のひとつは、夜明け直後。山羊たちが目を覚まし、息が冷たい空気に白く浮かび、鈴の音が静かに響く時間。世界が金色と毛並みで満たされるこのとき、カメラが捉えるのは「演出された美しさ」ではなく、ありのままの命の瞬間です。

カメラを持っていくなら、荷物は軽く、レンズは汎用性のあるズーム(24–105mm など)がおすすめです。ドローンを使いたい場合は、必ず現地の了承を得ましょう。遊牧民にとって空は神聖な空間。騒がしい機械が空を割くことは、歓迎されないかもしれません。そして何よりも大切なのは、シャッターを押す前に、まず目で、心で、その瞬間を感じることです。

見落とされがちですが、人々の表情にも美しさが宿ります。しわの一本一本に物語があり、山羊を導く小さな手のひらに、暮らしのすべてが刻まれています。これらの瞬間を、敬意と共に切り取ることが、旅の写真家に求められる姿勢です。

ここでの撮影は、「撮る」ことではなく、「受け取る」ことです。ザンスカールの風景は、自らをゆっくりと、物語のように開いてくれます。そのささやきに耳をすませ、レンズを通して「聴く」ように撮る。そうして生まれる一枚は、単なる画像ではなく、土埃や息づかい、静寂までもが詰まった記憶になります。

だからこそ、カメラは忘れずに。でもそれ以上に、「ここにいる」という感覚を携えて。この旅で本当に見るべきものは、レンズの先ではなく、その奥にある静かな命の動きなのです。

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遊牧の道を行く──あなた自身の旅を始めるには

ここまで読み進めて、こう思った方もいるかもしれません。「私にも、この旅ができるの?」答えは、イエスです──でも、それは違うかたちの旅に身を委ねる覚悟があるなら、という条件付きです。ザンスカールの遊牧民とともに歩くことは、一般的なツアーではありません。パンフレットも、オンライン予約もありません。必要なのは、ゆっくりと関係を築くこと。そして心を開くことです。

まずは、ザンスカールやレーで実際に遊牧民の家族とつながっている現地ガイドや小さな組織に連絡を取りましょう。大手の業者を通すよりも、地元と深い信頼関係を持つ人々を通じての紹介が大切です。私たちが受け入れてもらえたのも、長年ソナムの家族と信頼関係を築いてきたラダックの友人のおかげでした。

日程はあってないようなものです。天候や山羊の健康状態、草地の育ち具合によって出発が早まったり遅れたりします。たとえば、6月10日出発の予定が、気づけば6月15日になるかもしれません。予定に合わせて旅を組み立てるのではなく、大地の声に耳をすませながら旅のペースを合わせる──それこそが、この旅の醍醐味です。

持ち物は、軽く、機能的に。高地の夜に備えた寝袋(最低気温に対応したもの)、温度差に対応する重ね着、防水性のあるトレッキングブーツ、小型のソーラー充電器、浄水用のタブレット、そして敬意ある心構え。通信は不安定、あるいはまったく通じないこともあります。でも、それは「問題」ではなく、「贈り物」です。

快適さは期待しないでください。でも、心を揺さぶる豊かさはきっと得られるはずです。遊牧民たちは分け合ってくれますが、自分の食料(ナッツ、ドライフルーツ、エネルギーバーなど)は持参しましょう。写真を撮るときや儀式に参加する際には、必ず一言聞いてください。敬意ある姿勢こそが、この旅で通用する唯一の通貨です。

この旅の費用は、多くを必要としません。でも、その意味は計り知れません。たとえば、あなたの支援は山羊の餌代になり、防寒着の購入になり、子どもの学用品になります。これは、地域に直接利益が届く「顔の見える旅」。体験を通してつながる、対等で温かな交換なのです。

そして旅が終わり、レーの街へと戻ったとき。ほこりまみれの靴、乾いた唇、そして静かに何かが変わった自分自身に気づくでしょう。足どりは少しゆっくりと、持ち物は少し軽く、声は少し静かに。どこか遠くで、あの鈴の音がまだ鳴っている気がする──それは、心の中でまだ旅が続いているという証かもしれません。

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道の果てに──山羊たちが教えてくれたこと

私はこの旅に、ただのトレッキングを期待してやってきました。でも、ザンスカールを後にするとき、私の中に残ったものは「真実」に近いものでした。石と風の刻む道、鳴り響く山羊の鈴、夜明けの沈黙。そのすべてが、ただの風景ではなく、自分の中に染み込んでいく感覚でした。

山羊たちは、ゆっくり歩くことを教えてくれました。疲れているからではありません。ゆっくり歩くことが、自然の流れと調和する方法だからです。彼らは急がず、風の向きに立ち止まり、大地の声に耳を傾けて進みます。私たちが日々忘れがちな「リズム」と「余白」を、その歩みに思い出させてくれました。

遊牧民の人々からは、もっと深いことを教わりました。家は建物ではなく、「在り方」なのだということ。最小限の道具で火を起こし、言葉がなくても人を迎え入れる姿、そして何もない場所で満ち足りた表情を見せる彼ら。彼らの暮らしは決して楽ではありません。でも、そこには余計なものがなく、心からの満足感がありました。

そしてこの大地──ザンスカールの谷。ここは声を張らずに語りかけてくる場所でした。岩の陰、風の流れ、遠くの氷河。そのすべてが、「ここにいていい」と語りかけてくれるようでした。広大さの中に、孤独ではなく「所属」を感じる。そんな土地でした。

舗装された道へ戻り、スマートフォンの通知が再び鳴り始めたとき。私はどこかで、何かが変わったことに気づきました。私は少しゆっくりと歩き、荷物を軽くし、言葉も穏やかになっていました。そして、心の奥でまだ鈴の音が聞こえるような気がしたのです。

もしあなたが、ただの絶景やピークを求めるのではなく、生きている物語に触れたいと願うなら。この旅はきっと、あなたを迎え入れてくれるはずです。ただ歩くだけでいい。目的地は必要ありません。大地に従って進むことで、あなた自身の深い部分が、そっと動き始めるのです。

そしてそれこそが、本当の旅のかたちなのかもしれません。

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著者紹介

エレナ・マーロウはアイルランド生まれの作家で、現在はスロベニアのブレッド湖の近くにある静かな村に暮らしています。
ケルトの語りの伝統と、ユーラシアの山々の静けさに育まれた彼女の文章は、旅と人の暮らしに詩的なまなざしを注ぎ込みます。

彼女が綴るのは、ガイドブックには載らないような、静かで奥深い旅の物語。そこには、山道のぬかるみや、焚き火の煙、異国の人々との素朴な会話が描かれています。

フィヨルドの村からヒマラヤの峠まで、エレナは「観光」ではなく、土地と人の声に耳をすます旅を重ねています。彼女の言葉は、旅が地図ではなく、心の中に描かれるものだと教えてくれます。

執筆していないときは、ノートをポケットに忍ばせてアルプスの小道を歩いていたり、古い石造りの教会のそばで濃いコーヒーを飲んでいたりします。現在、ヨーロッパ各地のインディペンデントな旅メディアにて定期的にコラムを執筆中です。