はじまりに──ふたつの風景の物語
アンデスの風からヒマラヤの静けさへ
ラダックで最初に吸い込んだ空気は、パタゴニアの記憶よりも薄かった。でも、その薄さには意味が詰まっていた。レーに着いた朝、空は透き通るように青く、まるで窓ガラスに額を当てたような静けさがあった。ヒマラヤの山々は、アンデスのように吠えない。かわりに、囁く。その沈黙は、空っぽではなく、むしろ存在そのものだった。パタゴニアでは風が叫び、ラダックでは静けさが耳をすます。
再生型ツーリズムのコンサルタントとして、私はこれまで人の営みが届きにくい場所を訪れてきた。でもラダックは、それらとは違っていた。この地の標高は、ただ海抜が高いというだけでなく、時間の上に浮かんでいるようだった。石と空と魂が、絶妙なバランスで並んでいた。トーレス・デル・パイネの荒々しい岩峰からザンスカール渓谷の広がりまで、視覚的な共通点はある。鋭い稜線、移ろう空、そして山々が語る幾何学的な静けさ。
でも、見た目の共通点の下には、まったく異なる本質があった。パタゴニアの風景は、抗うようなエネルギーを放っていた。一方、ラダックの山々は、降伏することを教えてくれる。標高、天気、そして精神的な沈黙に身を委ねる。パタゴニアでは、身体が耐えることを覚える。ラダックでは、身体が手放すことを覚える。
いま、ふたつの地を比べる意味
ラダックとパタゴニアのような辺境の地は、もはや冒険家だけの場所ではない。気候変動や文化の喪失が現実となる今、これらの地域は「これからの旅のかたち」を測る基準となっている。ヨーロッパの旅行者の多くが、自らの環境負荷に敏感になっている。そしてこう問い始めている。「私は、壊さずに旅ができるのか?」さらには、「ただ楽しむだけでなく、内面を変えてくれるような場所はどこか?」と。
ラダックとパタゴニアは、自然のもろさと文化のしなやかさを映す鏡のような存在だ。どちらの地も、旅人に何かを求めてくる。忍耐、尊敬、そしてなにより「そこにいること」。そして、景色以上のものを与えてくれる。私たちが忘れかけていた「感じる力」だ。
このシリーズでは、パタゴニアの視点を通してラダックを見つめ直していく。自然、文化、そしてエコトラベルの未来について、読者の皆さんと共に考えたい。バスクの森を歩いた人も、ノルウェーのフィヨルドを旅した人も、ドロミテ山塊を登った人も、どうかラダックを「遠い場所」ではなく、どこか懐かしい響きを持つ風景として見つめてほしい。
自然という建築──山と空と孤独
人の尺度を超える風景
アンデスに立つと、人は小さく感じる。ヒマラヤに立てば、その感覚はさらに深まる。パタゴニアでは、自然は動きの中に現れる──突風、嵐、そして上昇気流を舞うコンドルたち。ラダックでは、自然は静寂のなかに存在する。山々は動かない。ただ、そこにある。そして、その沈黙の中で、私たちは肉体だけでなく、エゴまでも小さくなる。
ヌブラ渓谷に立ち、私はその稜線をパタゴニアのフィッツロイ山塊に重ねるように眺めていた。ただ、ここラダックの山々はより滑らかで、より古く、より静かだった。まるで何かを語る長老の骨のようだった。音は薄く、風がはためく祈祷旗の音だけが聞こえる。この土地の時間は、とてもゆっくりだ。
アンデスもヒマラヤも、同じように地殻の衝突から生まれたが、その表情はまるで違う。パタゴニアの鋭い岩峰は叫びのようだが、ラダックのなだらかな山並みは祈りのようだ。そのどちらにも共通しているのは、「圧倒的なスケール」だ。ただしそれは、数字では測れない。謙虚さでしか受け止められない種類の大きさだ。
マルカ渓谷のコンマル・ラへ向かう途中、私はヒマラヤのブルーシープ(バラル)が崖を軽やかに跳ねていく姿を見た。その動きは、パタゴニアで見たグアナコによく似ていた。空を舞うのは、南米ではコンドル、ラダックではヒゲワシ(ラムジェイアー)。種は違っても、その威厳は共通していた。
極限に生きる──気候が文化と旅を形づくる
ラダックとパタゴニアは、どちらも「生きられるギリギリの場所」にある。ラダックの一部では年間降水量が100mm以下。パタゴニアでは氷河の後退が深刻だ。ここでは、気候は背景ではなく、物語の主役となっている。
ヨーロッパでは、天気は会話のきっかけにすぎない。でもここでは、天気は生き方を左右する交渉相手だ。水の流れ、酸素の濃度、日差しの角度──それらすべてが村の存続や旅人の安全を決める。ロワール地方のワイン農家が雨を気にするように、ラダックの農民は雪の量に一喜一憂する。その目は、祈りと科学のあいだにある。
再生型ツーリズムの流れがヨーロッパで広がるなか、ラダックとパタゴニアのような場所は重要なヒントをくれる。これらは「消費される場所」ではない。「適応を求められる場所」だ。気候の厳しさは、障壁ではない。それこそが、この土地が持つ強さの源なのだ。
ツォ・モリリ湖の月の出や、ペリト・モレノ氷河の朝焼けを目の当たりにすると、自然がただ美しいだけでなく、「何かを教えてくれる存在」だと気づく。こうした高地の孤独な風景は、私たちが忘れかけていた「畏れ」という言葉の使い方を、もう一度思い出させてくれる。
文化の背骨──聖性、素朴さ、生き抜く知恵
マプチェから僧院へ──過酷な地に根づく精神性
チリ南部のマプチェの長老たちが大地を語るその口ぶりと、ラダックの僧侶が山々を語る静けさには、驚くほどの共通点があった。どちらにとっても、風景は資源ではない。眺めるものでもない。大地は、親しい存在であり、師であり、生きている存在なのだ。
パタゴニアには「イトロフィル・モンゲン」という言葉がある。すべての命がつながっているという、マプチェの世界観だ。ラダックでは、これに仏教の「縁起」が重なる。すべては関係性のなかで成り立つ──この思想は、単なる哲学ではない。標高3,500メートルで暮らす人々にとって、それは生きるための現実だ。信仰は、ここでは抽象的であってはならない。実用的でなければ、生き延びることができない。
ヘミス僧院で、ある僧侶と座って朝のひとときを過ごした。彼は私にバター茶を差し出し、家のそばを流れる川のことを語った。「あの川は、物語を話しているようだ。ときに楽しげで、ときに怒っているように聞こえる」と。私はパタゴニアのリオ・バケルのほとりで、川を兄弟のように語るマプチェの女性の言葉を思い出した。それは比喩ではない。本当の「関係性」なのだ。
ヨーロッパから訪れる旅人の多くは、聖地を「見る場所」として訪れる。でもラダックやパタゴニアでは、文化は演じられるものではなく、今も淡々と、自然と共に生きている。それを本当に感じるには、観光客の速度を落とさなければならない。見るのではなく、感じることが求められている。
過酷さのなかのもてなし──分かち合いの文化
気候が厳しい場所ほど、人の温かさが際立つ。パタゴニアの風が吹きすさぶ草原でも、ラダックの太陽に焼かれる村でも、私は同じような歓迎を受けた。もてなしは、取引ではなく、生き方なのだ。
かつて、道なき荒野に暮らすパタゴニアのガウチョに、突然の嵐の中で避難所を与えられたことがある。ラダックでは、ランバク村でホームステイをした際、家の主である女性が、寒い夜に自分の最も暖かい毛布を私に差し出してくれた。こうしたことは、特別なことではない。この地では「当たり前」なのだ。
ラダックのホームステイも、パタゴニアのエスタンシアも、ただの宿泊施設ではない。そこでは、季節、家畜、共同作業とともに回る生活がある。朝はミルで大麦を挽く音で目覚め、食卓には土地の恵みが並ぶ──根菜、乾燥果物、塩漬けのバター。すべてが、丁寧で、時間の流れも穏やかだ。
便利さを重視する旅に慣れたヨーロッパの旅人にとって、これはカルチャーショックかもしれない。でもそれは、同時に驚きと感動の出会いでもある。ここであなたは「顧客」ではなく、「客人」だ。その違いは大きい。それがあなたの歩みを遅らせ、心を柔らかくし、人と人のあいだにある本当のつながりを教えてくれる。
発見の代償──エコトラベルか、それともエコインパクトか?
意識ある旅人たちの増加
ここ数年、ヨーロッパの旅人たちの意識が静かに変わってきた。ただ「美しい場所」へ行くことでは満足できなくなってきた。求められているのは、意味のある旅だ。そしてそこには、ひとつの問いが生まれる──旅は本当に癒しとなり得るのか、それとも傷を広げてしまうのか?
ラダックとパタゴニアのような場所では、この問いは特に鋭く響く。かつては遠すぎて守られていた地域が、今では観光の大きな波にさらされている。パンデミック前の10年間で、ラダックのトレッキング許可証の発行数は倍増した。チリのトーレス・デル・パイネ国立公園には年間25万人以上が訪れ、脆弱なトレイルや氷河生態系に大きな負荷がかかっている。
これらの数字は、「野生への渇望」を示しているが、同時にひとつの矛盾も示している。私たちは孤独と純粋さを求めながら、その場所に押し寄せることで、それを壊してしまう。
レーやプエルト・ナタレスのローカルガイドたちと話すと、彼らは観光に対して感謝しつつも、不安を口にする。確かに、観光は収入をもたらす。でも同時に、プラスチックのゴミ、文化の変質、価値観の変化も連れてくる。観光が主な産業になると、その土地の魂は少しずつ擦り減ってしまうこともある。
けれど、希望もある。今日の旅人たち──特にドイツ、オランダ、フランス、北欧から訪れる人々──は、より深く考えるようになっている。彼らはホテルよりホームステイを選び、急ぎ足のツアーよりも、ゆっくりとした旅を望む。カーボンフットプリントをどう減らすか、地域にどう貢献できるかを真剣に尋ねてくる。これは一時的な流行ではない。旅そのものを再構築しようとする兆しだ。
パタゴニアが教えてくれた「保全」という選択
チリ南部で私は「ルート・オブ・パークス(国立公園の道)」の一部を歩いた。これは2,800キロにわたる広大な保護地域で、トンプキンス・コンサベーションの尽力により実現した。明確なトレイル表示、ビジターへの教育、保全を軸とした観光の設計──ここでは、観光は「権利」ではなく「特権」として扱われている。
ラダックも、同じ分岐点に立っている。風景は同じくらい壮大で、人々も同じくらい大地とつながっている。でも、ここでの開発のスピードは速く、時に無謀だ。かつては巡礼者や牧畜民しか訪れなかった村に、今では大型バスが入ってくる。聖なる川の岸辺にはプラスチックごみが目立ち、高山病を軽視して登る観光客が医療資源をひっ迫させることもある。
でも、守るための道具はすでにある。ゾーニング(地域制限)、地域主導の観光、ガイド協同組合、環境教育のサインなどは、パタゴニアでも実際に機能している。ラダックも、パタゴニアを「遠くの地」ではなく「先輩」として見れば、同じ過ちを避けることができるはずだ。
結論は明快だ。野生の美しさは、守らなければすぐに消えてしまう。制限なく開放してしまえば、どれほど意識の高い旅人であっても、知らずに破壊に加担してしまう。でも、明確なビジョンと配慮があれば、エコトラベルは「保護の力」となりうる。出会った場所を、来たときより少しだけ良くして離れる──それが本当の旅なのだと思う。
未来は今ここに──訪れることで再生する旅へ
持続可能から再生可能へ──ラダックの新しいモデル
ヨーロッパでは、「持続可能性」という言葉が目標として語られることが多い。でもラダックに滞在してみて、私は気づいた。ただ維持するだけでは、もう間に合わない。必要なのは「再生」だ。
南米のパタゴニアでは、この考え方がすでに広がりつつある。野生動物の再導入、在来植物の保全、積極的な復元管理──再生は、観光においても始まっている。ラダックは、まだ観光開発の初期段階にありながら、いきなり再生型モデルへと進めるチャンスを持っている。
では、ラダックにおける再生型ツーリズムとは何だろう? それは、土地にも人々にも癒しをもたらす旅の設計だ。移動は車ではなく徒歩で。スピードよりも滞在の深さを。観光客は教える側ではなく、地域の知恵を受け取る立場に立つ。ツォ・モリリやザンスカール、ヌブラのような繊細なエリアでは、訪問者数の制限が必要だ。
この地には、もともと再生的な知恵が息づいている。水路〈ジング〉や、断熱性に優れた伝統家屋、遊牧の暮らし。それらは何世代にもわたって自然と共に築かれてきた。観光産業にそれらを取り入れられれば、ラダックは「再生の場」になり得る。必要なのは、哲学と政策の接点──旅行者、運営者、行政が共に「与える旅」を共有することだ。
オランダで育った私は、効率性に囲まれてきた。そして、今暮らしているペルーでは、アンデスの伝統に再生の知恵を見出している。ラダックは、その両極をつなぐ場所だ。テクノロジーに興味を持ち、文化の芯が強く、そして環境的にとても繊細な地。この地でこそ、再生型観光が理論ではなく「実践」として育つ可能性がある。
旅人の役割──「消費者」ではなく「目撃者」として
ストク・カングリのふもとで朝を迎えた。霜が降りた大地にブーツを立て、私は思った──私たちはいつから旅を「所有」しようとするようになったのだろう? SNSの投稿のため、ピークの制覇のため、旅先をコレクションにしてしまっていないだろうか?
ラダックは、それとは異なることを教えてくれる。旅人は「目撃者」であるべきだと。
「目撃する」とは、支配せずに訪れること。決めつけずに聞くこと。村を通るとき、写真を撮るのではなく、敬意を持って通り過ぎること。再生型ツーリズムにおいて、旅人は風景や文化を守る仲間であるべきなのだ。
ヨーロッパの旅人──特に、数よりも意味を求める人々──は、重要な役割を担っている。選択が影響をもたらす。オフシーズンを選ぶこと。ホームステイに泊まること。歩くこと、尋ねること、急がないこと。その選択ひとつひとつが、この土地にとっての未来を変えていく。
ラダックは、過剰に観光化された土地になる必要はない。代わりに、南アジア初の「再生型高地観光地域」として世界に示す存在になれる。
そのためには、政府の方針だけではなく、旅人ひとりひとりの「配慮と意志」が必要だ。
結びに──風が同じ言葉を語るとき
ふたつの聖なる地のあいだで
ラダックを去る準備をしながら、私は再び風のことを考えていた。ここでの風は、パタゴニアほど激しくはない。でも、その静けさには、確かな力がある。
パタゴニアでは、風は草原を駆け抜け、生き残るための叫びのようだった。ラダックでは、風は僧院の回廊をすり抜け、石と旗のあいだから、長い時間の記憶を運んでいるように感じた。
地球の両端にあるこのふたつの高地は、同じ言葉を話している。沈黙、スケール、そして聖性──それらが共通語だ。どちらも私たちに思い出させてくれる。この地球には、まだ人の手に染まっていない場所があるということを。そして、それらの場所に入るとき、私たちは耳を澄まし、身を低くし、何かを変えるのではなく、ただ見つめることを求められるのだ。
これまでの旅で出会ったヨーロッパの旅人たちを思い出す。ラダックの大麦畑を見て涙を流したベルギー人の女性。名所を巡るのではなく、ソーラーランプの設置を手伝うために2週間を費やしたオランダ人のカップル。彼らは「巡礼者」だった。寺院や教会を目指すのではなく、大地そのものを聖なる存在として歩いていた。
ベルリン、ベルゲン、バルセロナ、ブリュッセル──そこからこの文章を読んでいるあなたへ。あなたの旅の選択は、現地に確かな影響を与えています。
ラダックはただの「行き先」ではない。ここは試される場所です。私たちの「慎み」や「気づき」や「謙虚さ」が問われる場所です。求められるのは、奪わずに受け取り、変えずに見つめ、外ではなく内へと旅すること。
そして、テントの布を揺らして最後に通り抜けたラダックの風の感触を、私はこれからも忘れないだろう。
それは、パタゴニアの風と同じだった──ふたつの風、ふたつの世界、ひとつの真実。
地球は、私たちのものではなく、私たちが属する場所なのだ。
著者紹介
オランダ・ユトレヒト出身の再生型ツーリズム・コンサルタント。現在はペルー・クスコ郊外に在住し、自然と共生する旅のあり方を世界各地で探求している。
35歳。南米パタゴニアの風の草原から、アンデスの雲霧林まで、極限の環境に根づく地域社会と共に旅と再生の関係を築いてきた。
彼女の文体は、数字と感情、分析と体感を自然に織り交ぜながら、読者を土地と深くつなぐ。静かな観察と洞察力で、旅人の視点を優しく揺さぶる語り口が特徴。
ラダックには今回が初訪問。パタゴニアでの体験と比較しながら、土地の文化、風景、そして観光のあり方を鋭く見つめ直す。旅はただ移動するものではなく、関わり方で世界を再生させる手段でもあると彼女は語る。
彼女の書くコラムは、旅をする人々に「感じることの大切さ」と「訪れた土地に何を残すか」という問いを投げかける。