24/7 Support number +91 9419178747
IMG 8804

世界の巡礼路:ラダックの聖なる道を辿る

意図を持って歩く――なぜ人は聖なる道を求めるのか

ブータンの「国民総幸福」から、ラダックの「静寂の巡礼」へ

ブータンでは、成功の基準はGDPではなく、国民総幸福(Gross National Happiness)です。その考え方――理想主義でありながら現実的でもある――に触れながら、ラダックの朝の光の中で私はふと思いました。もしラダックが「訪問者一人あたりに守られた静けさ」を観光の成果として測ったらどうなるだろう?

巡礼は、距離の問題ではありません。人を変えるのは、歩いたマイル数ではなく、そのリズム――一歩一歩を意識しながら進む、その中で心の奥がゆっくりと動いていくことなのです。スペインのカミーノでも、チベットのカイラス山のコルラでも、足を運ぶたびに、それは神への行為であると同時に、「自分はもっと豊かな存在である」と思い出す行為でもあります。

ラダックは、そうした現代的な巡礼の中で、失われつつある「本質」を持っています。ここでは風景が背景ではなく、聖なる存在そのものです。標高の高い砂漠、日焼けした僧院、風に揺れる仏塔――それらがひとつの精神的な生態系を作り出しているのです。

私はこれまで日本の熊野古道を歩き、イタリアのフランチジェナ街道を自転車で旅しました。その中で、世界の聖なる道が時に「ウェルネス・ブーム」の一部として消費されていく様子も目にしました。しかしラダックには、それに抗う力があります。ラマユルの冷たい風に口をつぐまされた瞬間。アルチ僧院の壁画に見返されたとき。谷を出たことのない僧が淹れてくれたバター茶。そのすべてが、「ここは観光地ではない」と語っているのです。

私たちが巡礼路を求めるのは、「本当の自分」とのつながりを現代の生活の中で見失っているからです。ヨーロッパではカミーノが「仲間との出会い」を、四国遍路が「修行としての規律」を、南米のミッション・ルートが「歴史との和解」を与えてくれます。ラダックが与えてくれるのは、それとは異なる贈り物――それは「空白」です。無ではなく、可能性としての空白。

おそらく、そこにラダックの静かな叡智があるのです。他の場所が「到達点」を提供するのに対して、ラダックは「溶けていくこと」を勧めてきます。小さくなること、静かになること、そしてその中でむしろ豊かになること。

美術館でも星付きレストランでもない、意味のある旅を求めるヨーロッパの旅人へ。ラダックの聖なる道は、隠れた宝ではなく、あなたが内面を見る準備ができたときに開かれる鏡なのです。

IMG 8442

意味の地図――私たちの心を形づくる巡礼路たち

カミーノ・デ・サンティアゴ(スペイン)――出会いと再生の道

カミーノ・デ・サンティアゴは、ヨーロッパで最も愛されている巡礼路のひとつです。スペイン北部の村々を通り抜けながら、サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂を目指すこの道は、「孤独な連帯」という感覚を与えてくれます。巡礼者たちは一人で歩きますが、決して孤独ではありません。朝霧の中での再会や、見知らぬ人との夕食が、ほんの一日で心の支えになることもあります。

ラダックの静寂に包まれた巡礼とは対照的に、カミーノは出会いと共有を大切にしています。アルベルゲ(巡礼者用の宿)は、道沿いに温かい光のように点在し、教会では祈りだけでなく会話も交わされます。一方ラダックの巡礼路は、会話を求めるのではなく、存在そのものを求めてくるのです。

熊野古道(日本)――自然が祈りとなる道

日本の紀伊半島、杉の森に覆われた熊野古道では、巡礼とは「自然との対話」です。霧の中に浮かぶ社や、雨音が葉に落ちる音の中に、聖なる気配が漂っています。私がそこを歩いたとき、神聖なものは掲げられたり宣言されたりするものではなく、森の静寂の合間から立ち上がってくるものなのだと知りました。

ラダックでも、自然が神託のように語りかけてきます。ただし、そこにあるのは湿った緑ではなく、冷たい砂漠とこだまする峡谷。神は森にではなく、崖に刻まれ、朽ちかけた僧院の壁画に描かれています。どちらも、歩くこと自体が儀式であり、道そのものが祭壇なのです

ヴィア・フランチジェナ(ヨーロッパ)――王国からローマへ

イギリスのカンタベリーからローマへと続くヴィア・フランチジェナは、ヨーロッパの歴史そのものが刻まれた道です。中世の市場町、ローマ遺跡、ルネッサンスの広場を抜けながら、歩く人は地形だけでなく、時代もまた旅していくのです。

ラダックにも時代が層のように重なっています。ザンスカールやシャム渓谷では、聖なる洞窟の隣にかつての交易路があり、祈りの輪の隣に要塞の廃墟が立っています。ラダックもまた生きた歴史の重なり。ただ、ヨーロッパがそれを大理石に刻むなら、ラダックは風に削られた石に刻むのです。

四国遍路(日本)――無常をめぐる円環の道

日本の四国を一周する全長1,200キロの四国遍路は、空海ゆかりの88の寺をめぐる修行の旅です。規律と手放しの巡礼。多くの人が一人で歩き、それぞれの心と向き合います。

ラダックには番号付きの道はありませんが、精神的なリズムは同じくらい深いものです。ここでは「無常」は教えられるものではなく、日々の生活そのものです。山は変わり、氷河は後退していきます。ラダックでの巡礼は、存在のはかなさを歩く旅。空気が薄くなるほど、一歩一歩が真実味を帯びてくるのです。

カイラス山巡礼(チベット)――世界の軸を巡る

ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、ボン教――すべての宗教が、カイラス山を「世界の中心」と信じています。その山を一周する「コルラ」は、宇宙そのものを巡るような巡礼。過酷で、原始的で、変容をもたらす旅です。

カイラス山はラダックの外にありますが、その霊的な重力はラダック中に響いています。僧院ではその名がささやかれ、ラダックの山々――ストク・カンリ、ヌン・クン、さらに遠くの峰々――もまた、神聖な幾何学のこだまのように立っています。

聖オーラヴの道(ノルウェー)――寒さと光と信仰

トロンハイムのニーダロス大聖堂へ向かう聖オーラヴの道は、北欧の魂を抱いた巡礼路です。光は淡く、影は長く、空気は張り詰めています。針葉樹の森やフィヨルドの谷を歩きながら、人は深い静けさの中に入っていきます。

ラダックの光もまた、容赦がありません。そこには霧はなく、あるのは石と太陽だけ。でも、どちらの巡礼も、必要なのは肉体の強さではなく、孤独を受け入れる精神の強さです。

スリーパーダ(スリランカ)――一つの山に、多くの神々

スリランカのアダムスピークでは、一つの岩の足跡が、宗教ごとに異なる意味を持ちます。仏教徒はそれを仏陀の足跡と信じ、ヒンドゥー教徒はシヴァのもの、キリスト教徒やイスラム教徒はアダムのものと信じています。多くの巡礼者が闇の中を登り、夜明けとともに頂上に立ち、信仰の光が交差する瞬間を迎えます。

ラダックでは、信仰は一つのシンボルに集中するのではなく、風景全体に染みわたっています。たった一つの頂上を目指すのではなく、この高原全体が神聖な空間なのです。

イエズス会伝道所巡礼路(南米)――帝国と香の余韻

アルゼンチン、ボリビア、パラグアイにまたがるイエズス会の伝道所は、信仰、植民地支配、文化の融合が刻まれた場所です。土でできた礼拝堂の隣に、先住民の彫刻が残る、和解と葛藤の巡礼

ラダックにも、仏教、ドグラ、ムガルの影が重なっていますが、その巡礼路は征服によって作られたものではありません。ここにあるのは、絶え間ない継承。聖なるものは外から持ち込まれたのではなく、この土地から自然に現れたのです。

ラリベラ巡礼(エチオピア)――岩に刻まれた信仰

エチオピアのラリベラには、溶岩の岩を彫って造られた教会群があります。そこに集う正教会の信者たちは、白い衣をまとい、静かに祈りながら、影と石の間を巡礼します。

ラダックの聖地は、地面を掘り下げるのではなく、空へと伸びています。それでも、そこに込められた「感情の建築」は同じ。崖にへばりつく僧院は、見せるためではなく、神に近づくためにあるのです。

アトス山巡礼(ギリシャ)――祈りの半島

ギリシャのアトス山は、修道院の共同体が今も生き続ける聖なる場所です。女性の立ち入りは禁止され、時間は祈りと香と静寂によって刻まれていきます。中世の修道生活が、そのまま残っているような場所です。

ラダックは誰でも受け入れますが、そこにもまた「境界」はあります。それは排除ではなく、期待としての境界。訪れる者は、エゴを脱ぎ捨て、立ち止まり、文字ではなく風景から学ばなければなりません。アトス山と同じように、ラダックもまた「目的地」ではなく、「対話」なのです

IMG 8803

ラダック――空が耳を傾ける場所

薄い空気の中の巡礼

ラダックには、肌に触れるような静寂があります。それは単なる「静けさ」ではなく、圧倒的な存在感です。夜明けに仏塔のまわりを歩く女性や、ヘミス僧院でマントラを唱える若い僧――彼らが語る言葉は少なくても、そこには深い祈りの空気が満ちていました。

標高3,500メートル、空気は薄くても、聖なるものは濃密です。私は僧院の構造も、マニ車の意味もまだ知らないままこの土地に立ちましたが、すでに「歩くこと」自体が儀式になっているのを感じました。一歩一歩が、この土地に対する捧げもののようでした。

カミーノや四国遍路のように道案内のある巡礼路とは違い、ラダックには書かれていない、原初的な道があります。集めるスタンプも、証明書もありません。得られるものは、自分の呼吸、立ち止まった時間、深く頭を下げた回数で測られます。

この土地そのものが聖典のようです。ヌブラの砂丘には風が詩を刻み、ザンスカールでは雪崩が賛歌のように響きます。名もなき僧たちが瞑想した石には、彼らの物語が残されています。歩くことは、石に翻訳された静けさを聴く行為なのです。

アンデスで私は「土地に導かれる旅を」という言葉をよく使いますが、ラダックでは、その考え方が自然に息づいています。ここでは、神聖さに標識はいりません。訪れる人に求められるのは、祈りのリズムで歩くこと――急がず、ただ、感じること。

スムダとアルチをつなぐ古い山道で、裸足のまま歩く年配の夫婦に出会いました。誰もそれを「巡礼」とは呼びません。でも彼らの姿勢、持っていた布、空を見上げるまなざしは、まぎれもなく動く祈りでした。

ラダックの聖なる道は、他の巡礼と決定的に違います。終着点に導かれるのではなく、「目的地」という概念自体を消してしまうのです。それは、意識の高度を上げる旅。信仰が呼吸に刻まれ、空がこちらの想いを聴いてくれるような旅です。

消費されたリトリートや作られた体験に疲れたヨーロッパの旅人にとって、ラダックは一切の演出がありません。あるのは、道、砂、山、そして記憶だけ。聖地を歩くとはどういうことか――その本質を思い出させてくれる場所です。

trek.markha.67

聖なる道しるべ――巡礼を導く僧院たち

ヘミス僧院――祈りが舞う祝祭の中心

私がヘミス僧院に着いたとき、中庭は命であふれていました。赤い袈裟をまとった僧たちが太鼓のリズムに合わせて舞い、虎の仮面が回転し、香が高地の風に溶けていきます。ヘミス祭がちょうど始まったところでした――それは、信仰、記憶、儀式が石そのものから湧き出すような光景でした。

日本の熊野古道の静寂や、ギリシャのアトス山の深い沈黙とは違い、ヘミスでは、神聖さが音と動き、そして共同の喜びとして現れます。この場所では、巡礼とは内面の沈黙だけではなく、外へ向かって祝福を表現することでもあるのです。

祭りのない日でも、ヘミスは聖なる呼吸をしています。象徴に満ちた壁画が瞑想堂を包み込み、祈祷旗のように並んだマニ車が、巡礼者に音の祈りを授けてくれます。ヘミスは、「祝うこと」もまた祈りであると教えてくれる僧院です。

ティクセとアルチ――思考と視覚の巡礼

山肌に段々と広がる白い建物――ティクセ僧院は、ラサのポタラ宮殿に似ていると言われます。でも、私がそこで感じたのは建築の荘厳さではなく、「視点の変化」でした。屋上から見渡すインダス渓谷は、ただの風景ではなく、心の地図を映し出す鏡のようでした。

ティクセの堂内では、15メートルもある未来仏マイトレーヤ像の前に座りました。その瞬間、私の中に湧いたのは「畏敬」ではなく、やさしさでした。ヨーロッパの大聖堂が持つ圧倒的な壮麗さとは違い、ティクセには心が解きほぐされるような静けさがあります。

そして、控えめな佇まいのアルチ僧院へ。11世紀の壁画が、色彩で語りかけてきます。アルチでは、聖なるものが視覚を通して現れます。一つひとつの筆の跡、描かれた菩薩のまなざし――それは、目を通して魂へと届く祈りでした。サンティアゴの賛美歌や四国遍路の読経とは異なる、「見つめることで祈る」巡礼がここにはあります。

ラマユル――岩と空のあいだの静けさ

ラマユルに立つと、大地が自分の存在を忘れかけているような気がします。まわりの地形はまるで月面のようで、荒々しく、美しく、人間の手に馴染まない自然のまま。僧院は崖にへばりつくように建ち、それはまるで土地そのものが形になったようでした。

ラマユルの静けさは空虚ではありません。明確な構造をもった静寂です。それは、ここへ来た人間の心の重さを、まるで知っているかのように包み込んできます。私は、一本のヤクの油灯がともる薄暗い祈祷室で座りながら、自分の声の重さに気づきました。そして、それを手放すことの奇跡にも

ラマユルには説明板も、物語を語る展示もありません。視線の誘導もありません。ただ、風景そのものが先に語りかけてくるのです。そして、それこそがラマユルの最大の教え――神聖さとは、目立つものではなく、ただそこに静かに在るものなのです。

ヘミス、ティクセ、アルチ、ラマユル――これらの僧院は、巡礼者にとっての星座のような存在です。直線的な道ではなく、それぞれの場所が固有の重力で私たちを引き寄せてくれます。巡礼者は単なる移動者ではなく、聖なる音に耳を澄ます「受信者」となっていくのです。

IMG 6127

静と歩――新しい巡礼者のかたち

足跡を残さずに歩く

世界中を旅していると、土地とともに歩く巡礼者に出会うことがあります。その人たちは、自撮りもゴミも残さず、ただ静かに歩きます。ニュージーランドの南島、チリのルタ・デ・ラス・ミシオネス、そして最近訪れたラダック――標高がすべてに敬意を強いるようなこの場所にも、彼らは確かに存在していました。

再生型ツーリズムの世界では、「軽やかに触れ、深く影響する旅」とよく言われます。ラダックではそれが単なる理論ではなく、生きる知恵として受け継がれています。この土地はもろく、古く、そして深く賢い。速く歩きすぎたり、無神経に進めば、その跡は風景に長く残ってしまいます。でも、息を合わせて静かに歩く巡礼者は、何も残さず、すべてを受け取っていくのです。

カミーノや四国遍路のように、計画された巡礼ルートやスタンプのある道と違い、ラダックには証明も報酬もありません。あるのは内側で起きる目覚めだけ。それは山頂ではなく、息切れと美しさのあいだで訪れます。

巡礼と経済のはざまで

私は、過度に愛されて壊れてしまった巡礼地も見てきました。聖地の前に自販機があり、沈黙の中をバスがクラクションを鳴らして通る――神聖が見世物となり、巡礼が商品となる。それでも、日本の熊野古道やフランスの小さな村々では、地域がその波に対して丁寧に抗ってきました。世界を歓迎しながら、自分たちを守る方法がそこにはありました。

今、ラダックもまたその岐路に立っています。観光は生活を支える一方で、旅人が求める静けさを壊す可能性もあります。僧院は写真スポットとなり、祈祷旗は飾りに変わり、神聖さは背景になってしまう――。巡礼という経済は、風除けに囲まれたバターランプのように、慎重に守らなければならないのです

けれど、ラダックの美点は、その孤立性自体が自然なフィルターになっていることです。本気で来ようとする人だけがここにたどり着きます。長い移動、険しい峠、寒さ。これらは不便ではなく、通過儀礼なのです。そして、その「敷居の高さ」こそが、ラダックの神聖さを守ってくれるのかもしれません。

熊野の苔むした山道が教えてくれたこと――そして、ラダックがもう一度思い出させてくれたこと。それは、本物の巡礼は、自分が「観光客だった」ことすら忘れさせてくれるということでした。

IMG 6625

コンポステーラからチョグラムサールへ――聖なる道をつなぐ

世界の巡礼地図におけるラダックの位置

世界各地に聖なる道が存在している――このことに気づいたとき、人類が長い間抱き続けてきた「歩くことで何かに近づく」願いが、目には見えない地図として浮かび上がってきます。スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへと向かう巡礼路や、日本の四国遍路。それぞれの道が、地理というよりは、心の構造を反映しているように思えます。

今、その対話の輪の中に、ラダックが加わろうとしています。チョグラムサールは、ローマやラリベラのように広く知られた地名ではないかもしれません。しかし、その土地が持つ静かな精神的な響きは、太陽に照らされた谷の奥に、確かに息づいています。仏塔を回る人々、黙って僧院の前を通る巡礼者。ラダックの風景もまた、聖なる地図の一部なのです。

インダス川沿いの道を歩いていると、かつて訪れた他の巡礼地が心に浮かびます。フィヤング僧院の埃っぽい中庭で耳にした沈黙は、ノルウェーの聖オーラヴの道で感じた森の静けさと重なります。アルチの壁画に宿る複雑な視線は、エチオピアの岩窟教会で見た信仰の深みに似ています。バスゴの若い僧が唱える高い声には、アトス山の朝の祈りが重なりました。

けれど、ラダックは何かを模倣しているわけではありません。ここにある聖なるものは、借り物ではなく、内側から湧き出してくるものです。ラダックの巡礼路は、舗装されていない、語られてもいない。だからこそ、むき出しの真実があります。ガイドも旗も、巡礼パスポートもありません。あるのは、山、僧院、そしてすべてを受け止める空だけです。

世界中の巡礼路をつなぐもの――それは宗教や建築ではなく、「歩きなさい、思い出しなさい」という静かな招きなのだと思います。ラダックでは、その招きが風や太陽や高地の空気を通して届いてきます。声は小さくても、確かにそこにあり、旅が終わった後も心に残り続けます。

ありきたりの体験に疲れたヨーロッパの旅人へ。ラダックは華やかな観光地ではありません。変容を促す巡礼地です。たどり着く場所ではなく、帰ってくる場所。標高だけでなく、心の姿勢をも変えてくれる。何かに出会うのではなく、自分自身に戻ってくるための旅なのです。

IMG 7585

これからの巡礼――見る人から聴く人へ

ある「初めての巡礼者」としての終わりの言葉

私は「ラダックの巡礼路について書く」つもりでここに来ました。でも実際には、ラダックが私の中に文章を書いたのです。劇的な啓示があったわけではありません。山の頂で神秘体験があったわけでもありません。もっと静かで、もっと揺さぶられるような、もっと正直な経験でした。それは、自分自身が風景に対して「開かれていく」感覚でした。

バスゴの砂に埋もれかけた祠の前で、一人の女性が小さなバターランプをそっと灯していました。彼女は顔を上げることなく、誰にも見られることを期待していませんでした。その瞬間、私はそれまでどんな説教でも得られなかった気づきを受け取りました。「巡礼とは、神を探すことではない。静かになって、神の声を聴けるようになることだ」と。

私はペルーで、山と会話を交わすケチュアの農民たちと暮らしています。ブータンでは、1年の価値をお金ではなく功徳で測る僧たちに出会いました。そしてラダックでは、石の家に宿る風の知恵、砂に埋もれた仏塔、恥ずかしそうな笑顔で古い詠唱を響かせる若い僧たちに出会いました。

この旅は、何かから逃れるためのものではありませんでした。何かに戻るための旅でした。場所ではなく、歩き方へ――謙虚さと驚き、そして「呼吸そのものが祈りになる」という歩き方。ラダックは私に、「巡礼とは動くことではなく、その場にあることを受け入れる力」だと教えてくれました

私は信じています。今、ヨーロッパにはこのような旅が求められています。パスポートにスタンプを増やす旅ではなく、心の見方を変えてくれる旅。ラダックは「次に行くべき場所」ではありません。より深く生きるための招待状です。疲れた魂に、まだ知らない自分に出会いたい人に、静けさを探している人にとって、ラダックは「戻る場所」になり得ます。

ある道は寺院へと導きます。そして、別の道は、あなたの中にある寺院を見せてくれます。

IMG 7512

著者紹介

アイラ・ヴァン・ドーレンは、オランダ・ユトレヒト出身の再生型ツーリズム・コンサルタントで、現在はペルー・クスコ郊外に暮らしています。

35歳。サステナブルな観光開発の現場で培った経験と、ブータン、チリ、ニュージーランドなど多様な土地でのフィールドワークをもとに、彼女は「旅が土地を癒し、人を変える方法」について探求しています。

彼女の文体は、データや事例と感覚的な洞察を融合させたもの。知的でありながら感情に語りかける文を紡ぎ出します。彼女のコラムは、欧州の読者に「ただの旅行」ではなく、「土地との対話」としての旅の可能性を示します。

今回ラダックを初めて訪れた彼女は、他地域との比較に鋭い視点を持ちながらも、土地への敬意を忘れずに観察し、語ります。

「ブータンが幸福を尺度にするなら、ラダックは“訪問者一人あたりに守られた静けさ”を尺度にできるのではないか。」

そう問いかける彼女のまなざしは、読者に旅の本質をそっと思い出させてくれます。