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ラダックの旅、はじまる:ヒマラヤの魂に触れる最初の一歩

山のささやき──ラダックが私を呼んだ理由

旅には、自分で計画するものと、旅のほうからやってくるものがある。ラダックは、後者だった。何年ものあいだ、その名前は私の意識のなかを漂い続けていた。まるで空中に止まる雪のように、美しく、神秘的で、どこか遠い存在だった。旅行フォーラムで見かけたり、写真集のページを飾っていたり、旅好きの誰かがそっと語る声にも混じっていた。「変わる前に行っておいたほうがいいよ」——そんな言葉を、スロベニアの山のホステルで聞いたことがある。その言葉は、長いあいだ私の中で生き続けていた。

私はラダックのことをあまり知らなかった。ただ、「リトル・チベット」と呼ばれ、インドのヒマラヤ高地にある場所だということくらい。それだけでも十分に心を惹かれた。でも、きっかけが訪れたのは、ブリュッセルのある灰色の朝だった。窓辺でブラックコーヒーをすすりながら、私は自分の中にある「広がり」「静けさ」「明快さ」への渇望をはっきりと感じた。それは、賑やかな都市や、整えられた博物館では得られないものだった。その日の午後、私はレー行きの航空券を予約した。

ラダックへの旅は、簡単ではないし、簡単であるべきでもない。そこへ向かうという行為そのものに、意志が必要だ。レーの空港に降り立つには、世界で最も高い山々の上を飛ぶことになる。そして到着した瞬間、標高はすでに3500メートルを超えている。空気は薄く、光は鋭く、エネルギーは——異質だ。まるで別の惑星に降り立ったような感覚。でも、どこか懐かしさもあった。

私の最初の一歩は、ゆっくりで慎重だった。ラダックでは、高地に慣れるための時間が必要だ。ただ身体的な意味だけではなく、精神的にも。風景は一気に迫ってくるけれど、それは都市のような騒がしさではない。ラダックは、声高に何かを主張するのではなく、低く穏やかに歌っている。山々はただ周囲にあるのではなく、まるでこちらを見返しているようだった。「あなたは何を探しに来たの?」と。

私はレーの旧市街近くの、小さなゲストハウスに泊まった。中庭にはアンズの木があり、屋上には祈祷旗が揺れ、台所からはバター茶の香りが漂っていた。初めての夜、ウールの毛布にくるまりながら、私は頭上に広がる星空を見上げた。それは、今まで見たどの空とも違っていた。その夜、私は気づいた。人々が「ラダックは精神的な旅」と言う意味を。

ここは、ただの目的地じゃない。私にとって、それはひとつの“啓示”だった。

夜更け、風が山のかたちをなぞる音を聴きながら、私は静けさに包まれていた。ただの静けさではない。それは、「今、ここにいる」ことを感じさせてくれる、深い静寂だった。その瞬間、ラダックは地図の上の場所ではなく、私の内側に息づく感覚になっていた。私は、ヒマラヤの魂の入り口に足を踏み入れたのだ。

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レーに降り立つ──高地の最初のひと呼吸

レーへの降下は、ほかのどんなフライトとも違っていた。飛行機が雲の間を抜けていくと、左右からギザギザの山々が迫ってくる。まるで手を伸ばせば触れられるような距離に、赤茶けた尾根や、雪に縁取られた頂が次々と現れ、窓枠の外はまるで一枚の動く絵画のようだった。これはただの着陸ではなかった。自然そのものに迎え入れられるような到着だった。

レーの空港は、素朴で飾り気がない。目立つ看板もなければ、大きなアナウンスの声もない。ただあるのは、高地特有の乾いた空気と、息を呑むような標高による圧倒的な実感。タラップを降りた瞬間、その空気に包まれて、私は思わず立ち止まった。酸素は薄く、胸が早く波打ち、足取りは重く感じられた。ヒマラヤは喧騒ではなく、静けさと高度で私を迎えてくれた。

空港からレーの町への道のりは、まるで序章のようだった。切り立った山が空を囲み、丘にはストゥーパや白い家々が点在している。えんじ色の法衣をまとった僧侶たちが道端をゆっくりと歩き、屋根からは祈祷旗が風に揺れていた。風に乗って運ばれる祈りの言葉たちが、そっとこの地に溶け込んでいるようだった。

私が泊まったのは、旧市街の静かな路地にある家族経営のゲストハウス。出迎えてくれたのは、あたたかい笑顔の女性、ドルマ。彼女は銀色のポットに入ったバター茶を差し出して言った。「今日は休んで。最初の一日は、休息だけ。」その言葉は、まさに正しかった。標高3500メートルを超える場所では、体も心も「急がないこと」を必要としていた。探検したい気持ちは山ほどあったけれど、山は焦らない。こちらが慣れるのを、じっと待ってくれていた。

午後は、ゲストハウスの屋上で過ごした。遠くに見えるストク・カンリの峰々に、雲がゆっくりとかかっていくのを眺めていた。空気は乾いていて澄んでおり、日差しにあたためられた大地や薪の煙の香りが混じっていた。ときおり、近くの僧院から聞こえてくる法螺貝の低く長い音が、谷に静かに響き渡っていた。それはこの土地が、いまも古いリズムの中に生きていることを教えてくれる合図のようだった。

夕方になると、太陽は山の背に沈み、影がゆっくりと町を包んでいく。私はウールのショールを羽織り、遠くに見えるレーの家々に灯る光をひとつずつ見つめた。それはまるで、世界全体がそっと息を吐いているようだった。そして私は、その静かな呼吸のリズムに、自分を重ねていた。

私はラダックに、壮大な景色を期待して来た。でも本当に出会ったのは、「空気そのもの」だった。高く、広く、静かで、そこに“いる”ことの意味を感じさせてくれる空気だった。

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僧院とマニ車、そして思いがけない出会い

ラダックに来て3日目、ようやく体が標高に順応してきた。目覚めたときには頭がすっきりとしていて、足取りも軽い。中庭には朝の光が差し込み、近くでは誰かがマニ車を回す音がかすかに聞こえていた。今日はゆっくり動こうと決めて、私は祈りの香りをたどって、丘の上にある僧院へ向かった。ずっと心の中に描いていた場所だった。

ティクセ僧院は、インダス渓谷を見下ろすように山の斜面に築かれている。白い壁と黄土色の屋根が段々に並び、まるで子どもが丁寧に組み上げた砂のお城のようだった。私はゆっくりと階段を登った。息はまだ浅く、足取りも慎重になる。空気は薄いが、その分、静けさが濃く感じられた。エンジ色の僧衣をまとった若い修行僧が、小さな祈祷書を抱えて通り過ぎる。私はその足音を追いかけるように、本堂の奥へと入っていった。

中に入ると、空気はヤクのバターランプと杉の香で満ちていた。半暗がりの中で、金色の仏像たちが静かに光を放っていた。壁一面には何世代も前に描かれたタンカや壁画が並び、ひび割れた絵の隙間から、何かをささやくようだった。一角では僧たちが朝の読経をしていた。声は波のようにゆるやかに高まり、そして静かに沈んでいく。その場に座り込み、私は何も言葉を必要とせず、ただその音に身をゆだねた。

やがて年配の僧が近づいてきた。サフラン色の僧衣と穏やかな微笑み。彼は何も言わずに、へこんだ金属のカップにバター茶を注ぎ、私の手の中に置いた。私は黙ってうなずいた。それだけで十分だった。二人はしばらく無言のまま煙のゆらめきを眺めていた。予定表にも、ガイドブックにも載っていない、特別な時間。意味を言葉にしなくても、心に残る瞬間だった。

その後、僧院の外をぐるりと歩きながら、私はマニ車を一つひとつゆっくりと回していった。それぞれの回転が、知らず知らずのうちに願いになっていた。外では子どもたちが凧で遊んでいた。彼らの笑い声が谷に響いていた。そのとき、私は気づいた。ラダックの信仰は、僧院の中だけにあるのではない。それは、お茶を分かち合う手の中にあり、回廊に響く読経の声にあり、そして静かに歩くその所作の中にあるのだと。

夕方、ゲストハウスに戻るとドルマが私に尋ねた。「今日はどこへ行ったの?」私は答えた。「自分の中へ、ちょっと旅してきた気がする」。彼女は微笑んだ。まるで、それが予想通りの答えだったかのように。

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谷へ──ポストカードに映らない本当のラダックを探して

レーの町を離れ、本当のラダックの中心部へと足を伸ばした。そこは、高くそびえる山々と曲がりくねった川に抱かれた谷の中。移動そのものが、まるで瞑想のようだった。カーブを曲がるたびに、時が止まったかのような風景が次々と現れる。目的地はヌブラ渓谷。シャヨク川とシアチェン川が交わるこの場所は、標高の高い砂漠地帯にありながら、豊かな緑に包まれていた。

ヌブラに向かう道中、標高世界一とも言われるカルドゥン・ラ峠を越えた。高度が上がるにつれて空気は薄くなり、視界は幻想的に変わっていく。頂上に立ったとき、自分がまるで世界の屋根に立っているような感覚に包まれた。風に揺れる祈祷旗たちが、空高くマントラを運んでいる。とても静かで、でも心に強く残る瞬間だった。

峠を下り、ヌブラ渓谷に入ると、険しい山々が柔らかな景色へと変わっていく。大地は大麦やカラシナの畑に覆われ、アンズの果樹が彩りを添えていた。私が到着したのはディスキットという村で、14世紀に建てられた僧院が斜面の上に堂々と佇んでいた。巨大な未来仏像が谷を見下ろしているその姿は、平和と守護の象徴のようだった。

さらに足を伸ばし、フンダル村では思いがけない光景に出会った。そこには、砂丘とバクトリアン(双峰)ラクダの姿があった。かつてシルクロードの交易路だった名残が、この場所に静かに息づいていた。雪をかぶった山々に囲まれた砂漠でラクダに揺られるという、不思議な体験だった。

私が本当に求めていたのは、もっと深い繋がりだった。それを見つけたのが、2010年に初めて観光客に開かれたトゥルトゥク村。このバルティ文化の村では、石造りの家が狭い路地に連なり、何世代にもわたって受け継がれてきた暮らしが息づいていた。現地の家庭で宿泊し、そば粉のパンや自家製アンズをいただきながら、世代を越えて語り継がれる物語を聴いた。ラダックの温かいもてなしの心を、肌で感じた時間だった。

こうして谷々を巡るうちに、私は気づいた。本当のラダックは、観光名所の写真の中にはない。それは静かな瞬間のなかにある。村人の笑顔、マニ車を回す手、夕暮れの僧院の壁に映る光。そうした、飾りのない、でも深く心に残る体験こそが、ラダックの真の姿なのだ。

Nubra valley Ladakh

湖のほとりで見つけた静けさ

静けさにも、いろいろな種類がある。重たい静けさ、空っぽな静けさ。でもパンゴン湖で出会った静けさは、まったく違っていた。それは広大で、生きていて、どこか神聖なものだった。何日もかけて山道を抜けたその先に、その湖は、ただ黙ってそこに広がっていた。

全長134キロにおよび、一部はチベットにも広がるパンゴン湖。湖の色は時とともに移り変わり、夕暮れには冷たいターコイズブルーから深いコバルトブルーへと姿を変えていった。湖面に映る光が、夕日のなかできらめきながら揺れていた。周囲の山々は長い影をまとい、まるで静かな修行僧のようだった。そこは「場所」というより、「存在」だった。ただ静かに、こちらを見守っているようだった。

私はなめらかな岩の上に腰をおろし、バター茶を手に湖を見つめていた。目の前には、人の姿も建物もない。ただ風、水、空が、言葉のない対話を続けている。私はその場で、ラダックを「旅の目的地」として見るのではなく、「感じるもの」として受け取っていた。呼吸のリズムさえも、湖の静けさに合わせて変わっていくようだった。

そのとき、黒い首のツルが二羽、湖面すれすれを静かに飛んでいった。ラダックではこの鳥が平和と忠誠の象徴とされている。その姿が山の向こうへ消えていくのを見送ったとき、私は何か祝福のようなものを感じた。観光客ではなく、「証人」として、この地に立っているような感覚だった。

パンゴンの夜は冷える。ヨーロッパの冬よりも、ずっと深い冷たさ。でもその代わり、空には無数の星が広がっていた。人工の光も音もない世界で、天の川は砕けたガラスのように頭上に流れていた。テントの屋根に寝転びながら、私は子どもの頃以来久しぶりに星座をたどった。こんなにも空が明るいことを、いつの間にか忘れていた。

その静寂のなかで、ひとつの思いがはっきりと浮かんできた。ラダックは、美しさを「見せて」くれるのではない。その中に「招き入れて」くれるのだ。私はパンゴン湖に、写真を撮るために行った。でもそこを後にしたとき、カメラには写らない記憶を、心の奥にしっかりと刻んでいた。

Pangong Lake Ladakh Of Ever Changing Colours and Sparkling Waters

ヒマラヤに教わったこと

私は答えを探してラダックに来たわけではなかった。むしろ、答えから少し離れたかったのかもしれない。でもヒマラヤは賢い。何も語らなくても、黙ったままでたくさんのことを教えてくれる。谷を抜け、山々に包まれる時間の中で、ラダックはそっと自分の教えを差し出してくれた。大きな声ではなく、小さな気配のようなかたちで。

最初に教わったのは「待つこと」。標高の高い場所では、すべてがゆっくりとしか進まない。歩くのも、息をするのも、考えることさえも。そのスピードに合わせるしかない。ある朝、ヌブラ渓谷で農夫のドルジェに出会った。彼はアンズの木の下に私を招いてくれた。言葉は通じなくても、私たちは一緒に果物をむき、ヤギが通り過ぎるのを眺めた。ただそれだけの時間。何かを「する」のではなく、ただ「いる」こと。それがここでは、いちばん自然な過ごし方だった。

次に教わったのは「たくましさ」。ここでの暮らしは決して楽ではない。冬は厳しく、道路はしばしば閉ざされ、電気も安定しない。でも、人々はよく笑い、少ないものを惜しみなく分け合う。トゥルトゥクで出会ったある女性は、寒さと壊れたストーブの中でも、温かいパンとお茶を私に出してくれた。「これで十分」と、彼女は胸に手を当てて言った。その言葉は、ラダックを離れたあとも、ずっと心に残っている。

そして私は、「謙虚さ」も学んだ。都市では、沈黙を埋めようと音を出し、不安を言葉で塗りつぶそうとする。でも、ラダックの僧院では、沈黙こそがもっとも尊いものだった。ただ座り、息をし、耳を澄ます。そのとき聞こえてくるのは、風や読経の声だけでなく、自分の内側にずっとあった静けさ。その気づきは、大げさでなく、やさしく胸にしみこんでくる。

結局のところ、旅というのは「たくさん見ること」ではなく、「たくさん感じること」なのだと思う。名所をめぐることでも、完璧な写真を撮ることでもなく、ほんの小さな瞬間のなかにすべてがある。子どもが差し出す一輪の花、山が朝焼けに染まる瞬間、知らない人がくれる親切。そういう「合間の時間」が、旅を特別なものにしてくれる。

帰りの荷造りをしながら、私は「出発する」というより「別れを告げる」ような気持ちになっていた。ラダックは変わっていない。でも、私の中の何かが変わっていた。山々は、私の内側をそっと並べ替えてくれた。激しくではなく、静かに、でも確かに。そしてそれこそが、旅がくれる一番大きな贈り物なのだと思う。

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ラダックへの初めての旅を計画する──魔法を失わないために

ラダックが教えてくれたのは、旅のリズムを持つこと。目を見開いて訪れるだけでなく、心をひらいて「待つ」こと。この場所は、予定をびっしり詰めて駆け抜けるような旅には向いていない。けれど、ほんの少しの工夫と準備で、ラダックが差し出してくれるものを、より深く受け取ることができる。

まずは、季節を選ぶことから。ラダックの高地エリアが開かれるのは、おおよそ5月下旬から10月初めまで。峠が通行可能になり、天候も安定する。7月と8月は最も暖かく観光客も多いが、静けさを望むなら6月か9月が理想的。私は6月中旬に訪れた。大麦畑が風に揺れ、空気には雪解けの名残が感じられた。

標高を甘く見てはいけない。レーの町だけでも標高は3500メートルを超えている。健康な人でも、体に負担がかかる。到着後、最初の2日はゆっくり過ごすのが大切だ。トレッキングや長距離移動は避けて、町を静かに歩いたり、お茶を飲んだりしながら身体を慣らしていく。水をたくさん飲んで、よく眠る。そして、山があなたに語りかけてくるまで、急がずに待つこと。

どんな移動手段を選ぶかも、大切な要素だ。グループツアーは便利だが、しばしば名所を駆け足でめぐって終わってしまう。おすすめは、レーに数日滞在してから、ローカルガイドや運転手と一緒にゆっくり谷を巡るスタイル。ホームステイに泊まれば、現地の人々の生活に触れられるし、彼らの暮らしを支えることにもなる。私がもっとも心に残っている時間は、ホテルの部屋ではなく、薪ストーブのそばで交わした言葉のない会話だった。

持ち物は軽く、でも賢く選ぶべき。太陽の光は鋭く刺さるようなので、日焼け止めは必須。気温差が大きいので重ね着を意識する。ATMはあてにならないので、現金も必要。そして、ぜひノートを持ってきてほしい。写真では捉えきれない、感じたことを書き留めるために。

なにより大事なのは、「余白を計画に入れること」。予定のない日を、1日か2日残しておく。その時間に、場所があなたを導いてくれる。道に迷ってもいい。小さな脇道に入ってみるのもいい。誰かの誘いを受けてみる。それが、旅の本当の始まりだから。

ラダックは、消費するための場所ではない。感じるための場所だ。ラダックの時間に身を委ねるほど、この旅はあなたの中に深く残っていく。ブーツを脱ぎ、バッグをしまったあとも、ずっと。

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心に残る場所

旅先には、パスポートにスタンプを残す場所もあれば、記憶に足跡を残す場所もある。ラダックはそのどちらでもない、もっと特別な場所だと思う。この地は、静かに、でも確かに、心の奥深くに入り込んでくる。まるで僧院の鐘の音が山々に静かに響くように、ラダックの気配は、あなたの中に長く残る。

レー空港から飛行機が飛び立ち、雲のヴェールの向こうに谷が見えなくなったとき、不思議な感情が込み上げてきた。つかの間の別れというより、ようやく分かりはじめたリズムと離れるような、静かな喪失感だった。風、星空、バター茶の朝、ゆっくりとした歩み……そのすべてが、いまも私の胸の中で鼓動を打っている。

持ち帰ったのは、お土産ではない。スノードームや彫刻の置物でもない。代わりに持ち帰ったのは、ラダックの質感そのものだった。日差しに焼けたマニ車の木目、貸してもらったショールの温もり、そして言葉がいらなかった人々との静かな関係。それらは飾るものではなく、心の中で何度も思い返すものだった。

ラダックから戻ったあと、私は気づかぬうちに歩き方が変わっていた。呼吸も、視線も、少しずつ違っていた。葉のあいだから光が差す様子を立ち止まって眺めたり、空を見上げる時間が増えた。誰かの言葉を、より丁寧に聞くようになった。旅は一瞬で人を変えるものではない。でもラダックは、静かに、深く、私の内側を整えてくれた。

もし、あなたがラダックに行くことがあるなら——私は心から願っている——「見に行く」だけでなく、「感じに行って」ほしい。氷河のそばを歩き、放牧のヤギの群れとすれ違い、石造りの家の前で風を感じてみてほしい。この土地の人々と共に、空に近い暮らしのリズムに寄り添ってみてほしい。ラダックは、時間や美しさに対するあなたの感覚を、やさしく解きほぐしてくれる。

ラダックは、説明する必要のない場所だと思う。ただ、そこに身を置くだけで十分。その場所に触れた人なら、きっとわかる。ラダックは空港で終わる場所ではない。それはあなたの中に旅立ち、これからもずっと一緒に歩んでいくものなのだ。


著者について

エレナ・マーロウは、ヨーロッパを拠点とする旅のコラムニストです。
世界の静かで見過ごされがちな場所を歩きながら、
山が語り、人々が暮らし、旅人が本来のリズムを取り戻す瞬間を綴っています。

彼女の旅はいつも、ゆっくりと、心を澄ませながら進みます。
たくさんを見るのではなく、深く感じること。
その信念が、彼女の文章のすみずみに息づいています。

ヒマラヤの村を歩くときも、海辺の静かなデスクに向かうときも、
彼女の旅は、いつも物語の途中にあります。