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時を超えるシャム渓谷の道 – ラダックの隠れた村々と旅の記憶

この世界には、ただ山を越えるだけではなく、時をも切り拓く道がある。ラダックの静寂の中心に、そのような道が一本通っている。風は長い年月をかけて石の間をすり抜け、かつての旅人たちの記憶を運び続けている。それは「シャム渓谷トレック」と呼ばれているが、その名だけではこの道の本質を十分に表すことはできない。これは単なるルートではない。これは、時をほどく旅だ。

旅は歩き始める前から始まる。都市の喧騒を離れ、確かなものから解き放たれたとき、人は何かを探し求めるようになる。ラダックの高地砂漠では、景色は本質だけを残して削ぎ落とされる。岩、空、静寂。 そして、それらの間を縫うようにして続く一筋の道がある。

シャム渓谷には、そびえ立つ氷壁もなければ、命を脅かす峠道もない。その代わりに、時の流れを忘れたかのような村々がある。日干し煉瓦で造られた家々は、数世代にわたり変わらぬ姿でそこに立ち続けている。交易商人たちが塩やトルコ石を交換しながら行き交った峠道もある。風が祈りの旗を揺らす場所では、今もなお誰かがつぶやく祈りの声が空へと昇っていく。

この地を歩くことは、単に距離を進むことではない。この地に身を沈め、耳ではなく、肌で、骨で、呼吸で聞くこと。 ここを歩いた旅人たちが、過去から現在へと刻んだ足跡。その足跡は、踏みしめた者に何かを残し、旅人自身の内側にも印を刻んでいく。

ラダックという場所は、急ぎ足の者を歓迎しない。せわしなさは、ここでは通用しない。ここでは、山が、川が、風が歩調を決める。シャム渓谷を歩くということは、このリズムに身を委ねること。 静寂が語ることを、耳を澄ませて聞くこと。

そして、旅は始まる。歩き出すのではなく、風のささやきに導かれるようにして。

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リキルへの道――過去のささやき

道は、蛇のようにゆるやかに身をくねらせながら、ラダックの荒涼とした大地を這うように続いている。足元の土は乾き、風が小さな砂煙を巻き上げる。レーの街を離れると、現代の世界がゆっくりと後ろへ消えていく。 ビルも、信号も、車の音もなくなり、代わりに静けさが広がる。

リキル。 それは旅の通過点でありながら、どこか特別な響きを持つ場所だ。見渡す限り広がる荒野の中、リキル僧院が丘の上に佇んでいる。その白壁は、果てしない青空の下でひときわ際立っている。千年の歴史を刻むこの僧院は、かつてキャラバンが通る道標であり、巡礼者が祈りを捧げる場所でもあった。

この村では、時間がゆっくりと流れている。道端ではヤギ飼いが羊を連れ、石畳の細道をのんびりと歩いていく。家々の屋根には乾燥させた麦束が積み上げられ、風がそれをそっと撫でる。リキルに来た旅人は、まずこの静寂を受け入れることになる。

丘の上へと続く細い道を登ると、僧院の入口が見えてくる。中へ足を踏み入れると、静けさがさらに深くなる。僧侶たちの読経の声が、厚い壁に反響しながらゆっくりと消えていく。大仏像の瞳は、時の流れを超えて何かを見つめているかのようだ。

リキルは、旅人に問いかける場所だ。
「お前はどこへ向かっているのか?」
それは物理的な問いではない。この大地を歩く意味、進む先にあるもの、そして失われるもの。静かな風の中で、自分自身にその答えを探さなければならない。

リキルを後にすると、道は次第に細くなり、やがて山道へと変わる。ここからが本当の旅の始まりだ。道の先には何があるのか――それを知るには、ただ歩みを進めるしかない。

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世界の終わりから始まる旅

リキルを越えると、道はただ消えていくのではない。別のものへと変化する。
アスファルトは砂に、砂は石に、石は静寂に――。
この静寂は、ただの無音ではない。むしろ、満ちている。
かつてここを歩いた旅人たちの足跡、
風に溶けた言葉にならない声、
遥か昔に消えたキャラバンの気配――。
すべてがこの地に沈み込み、見えないながらも、確かにそこにある。

最初の一歩は、ぎこちない。
決して道が険しいからではない。
ただ、心がまだ適応できていないのだ。
都市では、歩くことはただの移動に過ぎない。
しかし、ここではすべての歩みが「意思」となる。
大気は薄くなり、遠くの空はどこまでも広がる。
ラダックの大地は旅人を包み込むのではなく、むしろ吞み込む。

数歩進むだけで、過去の存在が滲み出す。
この道は、新しく作られたものではない。
ずっと前からここにあり、商人たちが塩を運び、僧侶たちが静寂を求め、羊飼いたちが季節とともに移動した。
この道は単なる「通過点」ではなく、異なる時代をつなぐ「継ぎ目」なのだ。

風景は、「何もない」ことを基調に変化する。
なだらかな丘が、まるで時の流れを凍結させた波のように続いていく。
孤独な祠が点在し、その白いストゥーパは誰に祈りを捧げているのかも分からないまま、ただそこにある。
祈りの旗が、ぼろぼろになりながらも風に絡みつき、かすれたマントラを空へと送り続ける。

そして、最初の峠が現れる。
フォーベ・ラ(Phobe La)。
この峠は派手さはない。
しかし、それは単なる標高の違いではなく、「境界」なのだ。
ここを越えると、風景は変わる。
気圧は低くなり、鼓動が大きくなる。
それは疲労ではない。
何かが研ぎ澄まされる感覚。
無駄なものが削ぎ落とされ、本当に必要なものだけが残る。

頂上にたどり着いても、そこには何もない。
旗も、碑も、勝利の印もない。
あるのは、ただ広がる大地。
谷が遠くまで続き、光と影がゆっくりと踊る。
地平線は線ではなく、ただ空と大地がにじむように溶け合う場所。

都市では、世界は歩道の縁石やビルの影で区切られる。
しかし、ここでは世界は終わらない。
ただ、続いていくだけなのだ。


フォーベ・ラのささやく風

風は、この土地の古い旅人だ。
何世紀もの間、ラダックの尾根を越え、谷を抜け、峠道をさまよい続けてきた。
フォーベ・ラ(Phobe La) の登りでは、それはただの風ではなくなる。
岩に擦れながら、古の物語を囁くように流れていく。

登りは急ではないが、何かが足を遅くさせる。
それは景色が圧倒的だからではない。
この土地が旅人に「急ぐな」と語りかけるからだ。
空は広く、雲ひとつない。
太陽は影を長く引き伸ばし、砂色の大地に濃淡を落としていく。
ここには、標識も、道路もない。
ただ、旅人の呼吸と、風の音だけが続いている。

風が一気に強くなる。
それは冷たいが、冬の鋭さとは違う。
それは高度の冷たさであり、
遥か遠くから吹き寄せられた、何千年もの記憶の冷たさだ。
風は土の香りを運び、どこか遠い村のかすかな焚火の匂いを残し、
祈りの旗が翻る音を引きずりながら、また去っていく。

峠の手前で、古びた石積みが見えてくる。
かつての隊商たちが積み上げたケルンの名残だ。
この道を越えた商人たち、僧侶たち、遊牧民たちの存在が、
この無造作な石の山に刻み込まれている。
今は誰も触れない。
ただ、風だけが知っている。

峠の頂上に立つと、一基のストゥーパが姿を現す。
白く、どこまでも孤独なその姿は、
旅人たちの通過を見届けるためだけに建てられたかのようだ。
色あせた祈りの旗が、風に打たれながら空に向かってなびいている。
端はほつれ、もはや紙のように薄くなっているものもある。
しかし、文字はまだ残っている。
オム・マニ・ペメ・フム」。
風が読んでいるのかもしれない。
聞いている者はいなくても、唱え続ける言葉たち。

峠の頂から、世界が開ける。
地図には描かれない谷が、まるで折りたたまれた絹の布のように広がっている。
見渡す限りの空間が、ただそこに「ある」。
この場所には目的地も終着点もない。
ただ、進み続けるだけだ。

背後では、風が再び舞い上がる。
しかし、旅人はもう立ち止まらない。
ここを超えた者は、もう戻ることはないのだから。


ヤンタン――時が止まった村

フォーベ・ラを越えると、道は再び下り始める。
だが、それは単なる下降ではない。
何かが旅人を引き寄せるような感覚。
谷が広がり、太陽が傾き始めると、光は黄金色に変わる。
大地は柔らかくなる。遠くに、散らばるようにして家々が見えてくる。
その中心に、ヤンタンがある。

ヤンタンは、まるで記憶の中の村のようだ。
石を積み上げた細い道が、迷路のように家々の間を巡っている。
古びた扉、土壁の家、乾いた空気に溶ける牛の鳴き声。
強い風に抗うようにたたずむ小さなストゥーパ。
この村では、時間は流れず、ただ「そこにある」ものだ。

初めて訪れる者は、まず静寂に包まれる。
街では聞こえなかった音が、ここでは聞こえる。
小さな祈りの車が回る音、乾いた土の上を歩く足音、遠くのヤクの鈴の音。
すべてが、村の静けさを際立たせる。

この村では、旅人は「泊まる」のではなく、「迎え入れられる」。
ヤンタンのホームステイは、ただの宿泊施設ではない。
それは、家の一部になること。
台所の隅に座り、火を囲み、バター茶を飲みながら、
言葉のいらない時間を共有すること。

夜、村はさらに静かになる。
電灯はない。
光は月と星だけだ。
空には無数の星が押し寄せるように瞬き、
闇は漆黒ではなく、銀色の光で満ちている。
遠く、僧院から聞こえる読経の声が、谷に響きながら消えていく。

この村は、通り過ぎるためにあるのではない。
この村は、旅人を止める場所だ。
時間が止まる場所ではなく、時間の意味が変わる場所。

そして朝になり、
陽が昇り、麦畑が光に染まる頃、
旅人は次の道へと向かう。
ヤンタンは、何も言わない。
別れの言葉もいらない。
風が記憶を運ぶだけだ。

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星々が押し寄せる夜

ヤンタンでは、夜が突然やってくる。
夕陽が山の向こうへ沈むと、金色の光は一瞬にして消え、
世界は深い闇へと落ちていく。
町のようにネオンが灯るわけでもなく、
街灯が徐々にともるわけでもない。
ただ、静かに、確実に、夜は訪れる。

その闇の中で、星々が姿を現す。
無数の光が、押し寄せるように空を埋め尽くす。
一つ、また一つと、遠くから浮かび上がる星々。
夜空は暗闇ではなく、光の海になる。

道端に立ち、夜空を見上げると、
空が近い。
ただ高いのではない。
この地では、空がすぐそこにある。
星々の瞬きが、まるで大気の鼓動のように感じられる。
銀河が弧を描き、世界の輪郭をぼかしていく。

村は眠っている。
聞こえるのは、遠くから響くヤクの鈴の音、
たまに軒下で動く家畜の気配、
そして風の音。
ここでは、風さえも低く囁くように吹く。
強く吹くことはない。
この静けさを壊さぬように、そっと村を撫でていく。

家の中では、囲炉裏の火がまだくすぶっている。
バター茶の香りが空気に残り、
ストーブの熱が土壁にしみ込んでいる。
毛布にくるまりながら、まぶたを閉じても、
なお、星々の光が脳裏に焼きつく。

この夜は眠るためのものではない。
目を閉じるには惜しすぎる。
ただ、静かに、無限を感じる夜。

そして、気づく。
この空を見上げた旅人は、
皆、同じことを思うのではないかと。
「私は今、世界の中心にいる。」

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ラダックの夜明け――煙、香、祈りの車

ヤンタンの朝は、ゆっくりとほどけるように始まる。
闇の中に微かな青が滲み、星々が一つ、また一つと消えていく。
夜明けは音もなく訪れる。
街のようにアラームが鳴ることもなく、
騒がしい車のエンジン音が響くこともない。
ただ、光がゆっくりと降りてくるのを待つだけだ。

最初に動き出すのは風だ。
谷の奥から冷たく澄んだ空気が流れ込み、
家々の屋根に張りついた夜の冷たさを剥がしていく。
次に、祈りの車が回る音が響く。
小さな木の円筒が、老人の手の中で静かに回り始める。
その動きはゆるやかで、まるで時間をなぞるようだ。

そして、煙。
家々の屋根から、薄い灰色の煙が立ちのぼる。
それは焚火の煙でも、ただの調理の煙でもない。
ジュニパーの香を焚く朝の儀式。
村の静寂の中、香の煙は細く長く伸び、
冷えた空気の中へと溶け込んでいく。

朝の光が村を照らす頃、人々は動き始める。
家の前では、女性たちがバター茶を入れる準備をしている。
茶葉と塩、そしてたっぷりのヤクのバターを混ぜ、
両手でしっかりと攪拌する。
この土地の朝は、バター茶の温かさとともにある。

朝の市場はない。新聞もない。
あるのは、いつもの朝の静けさ。
何も変わらない、しかしそれが心を満たす。
光が屋根に届き、土壁を温めると、村は完全に目覚める。

ある老人が、家の前のベンチに腰掛け、
強張った指先で数珠をゆっくりと繰る。
顔を上げることはないが、すべてを見ているようだ。
祈りの車はなおも回り続ける。
ただ、一度も止まることなく。


ヘミス・シュクパチャン――杉が守る村

ヤンタンを出ると、道は再び登り始める。
大地は乾き、砂の色が濃くなり、風が強くなる。
旅の疲れが足に重くのしかかるころ、
視界の先にふと、緑の影が揺れるのが見えた。

それは、ヘミス・シュクパチャン。
ラダックでは珍しい杉の木が生い茂る、特別な村。
「シュクパ」とは、ラダック語で杉のこと。
なぜ、この乾いた大地にだけ、
こんなにも豊かな緑が広がるのか。
その理由を知る者は少ない。

村の入り口に足を踏み入れた瞬間、
風が静まる。
強く吹いていたはずの風は、まるでここを避けるように、そっと姿を消す。
それは、木々が守っているからだと人々は言う。

この村には、伝説がある。
遥か昔、巡礼僧たちがこの地を訪れた際、
「ここは聖なる土地である」と告げ、
村を守るために杉の種をまいたという。
それがやがて大きな森になり、
旅人を迎え入れ、守り続けてきた。

ヘミス・シュクパチャンは、他の村とはどこか違う。
谷の底に閉じ込められたような静けさではなく、
木々に抱かれた穏やかな時間が流れている。

村の中心にある小さな僧院では、
僧侶がひとり、薄暗い本堂で読経を続けている。
香の煙がゆらゆらと揺れ、
積み重ねられた古い経典の間を漂う。
ここでは、時間は進むのではなく、深まる。

夕暮れ時、村のはずれの祠の前で、
一人の老人が数珠を手にしている。
指先がゆっくりと珠を繰るたびに、
何百年もの時が、その小さな動作に凝縮されていくようだ。

夜になると、風が杉の枝を撫でる音が響く。
しかし、それはざわめきではなく、囁きのようなものだ。
まるで、この土地の過去をそっと語りかけているかのように。

旅人は、その静寂の中で目を閉じる。
そして思う。
「ここに吹く風は、他のどこよりも優しい。」

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ツェルマンチェン・ラ――世界の境界

ヘミス・シュクパチャンを過ぎると、
道は再び登り始める。
緑の木々は徐々に姿を消し、
裸の大地と、吹き抜ける風だけが残る。
村の静寂は、ここでは違う形で続いている。
それは、孤独の静寂。

やがて、登りは険しくなり、
空が近く感じられる。
ツェルマンチェン・ラ。
標高3,750m、シャム渓谷を隔てる峠。
そこには何もない。
ただ、祈りの旗が風に打たれながら、
絶え間なくひるがえっているだけだ。

峠を越えること。
それは、物理的な行為ではない。
ここでは、世界が変わる。
景色が違う。
空の色が違う。
耳に届く音が違う。

足元には、かつての旅人たちが積んだケルンがある。
一つひとつの石は、「ここを越えた」という証。
それは、ただの記録ではなく、
決意のようなものだ。

風が吹き抜ける。
それは谷からの風ではなく、
どこか遠く、時間の彼方から吹いてきたような風。
それに身を委ねると、
まるでこの世界から切り離されるような感覚に包まれる。

旅人は、深く息を吸う。
標高が高いせいか、
それとも、何か見えないものを受け取ったせいか、
心が一瞬、震える。

やがて、歩き出す。
世界の境界を超えて。


杉の木と、時の静寂

ツェルマンチェン・ラを越えた先に、
再び緑の影が揺れているのが見えた。
あの荒涼とした風景の先に、
なぜかここだけは、静かな森のような空気を持っている。
そこが、ヘミス・シュクパチャンの入り口だった。

ラダックの高地にはほとんど見られない杉の木が、
この村では堂々と根を張っている。
木々は動かないが、生きている。
枝をそっと広げ、静かに村を見守っている。

この村に足を踏み入れると、
音が変わる。
それまで耳を打っていた風の音は消え、
空気が柔らかくなる。
まるで、杉の木々が静寂を守っているかのようだ。

村の中央には、石で築かれたマニ壁がある。
そこに刻まれたマントラは、
風の中で、誰にも聞こえない声で唱え続けている。
誰が最初にここに石を積んだのか、
その答えを知る者はもういない。
だが、手を合わせる人々は今も絶えない。

夜になると、杉の影が長く伸びる。
風は枝葉をわずかに揺らし、
木々は静かに語りかける。
それは音にならない言葉。
ただ、そこにいるだけで感じる何か。

村の老人はこう言う。
「杉の木は、時間を超えてここにある。」

旅人は、その静寂の中で目を閉じる。
木々の間を吹き抜ける風に耳を澄ませながら、
ふと、思う。
「この静寂が語るものを、私はまだ知らない。」

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ティミスガム――記憶の中へ続く道

ヘミス・シュクパチャンを後にし、
道は再び丘を越え、次の谷へと続く。
踏みしめる土は乾き、
石ころが転がる細い道が、
まるで記憶の断片のように伸びている。

ティミスガム。
シャム渓谷の奥深く、
静かに横たわる村。
そこには、時間に取り残されたような空気が流れている。
畑では黄金色の麦が揺れ、
白壁の家々はどこか古びているが、
それがかえってこの土地の深さを物語る。

村の入り口には、一本の杏の木が立っていた。
葉の間から、熟した実がのぞく。
誰のものでもなく、
ただそこにある。
旅人が一つ手に取ると、
果肉は柔らかく、
噛むと太陽の味がした。

丘の上には、ティミスガム城跡が佇んでいる。
かつては王が住んでいたというこの場所も、
今ではただ、崩れかけた石の壁が残るだけ。
風が吹き抜ける。
過去は語られない。
語る者はもういない。
ただ、遺されたものがここにあるだけ。

村の中心にある僧院では、
経典が静かに積まれ、
その間から、
焼き尽くされた時代の香りが立ち上っている。

夜が近づくころ、
村はさらに静かになる。
どこかで焚かれる小さな火の煙が、
空にゆっくりと溶けていく。
人々は語らない。
ここでは、沈黙こそが言葉なのかもしれない。

旅人は立ち止まり、
遠くを見つめる。
丘の向こうに、
かつての道があった。
どこへ続いていたのか、
今ではもう誰も知らない。

しかし、その道はまだそこにある。
そして、ティミスガムは、
記憶の中へと続く場所なのだ。

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杏の木と沈黙の記憶

ティミスガムの村を歩くと、
静けさが重みを持って響く。
言葉がいらないほどに、
この土地そのものが、何かを語りかけている。

村の入り口近くに、
一本の杏の木がある。
根を張り、枝を広げ、
何世代にもわたり、旅人を見送ってきた木。
その枝には、たわわに実る小さな果実が揺れている。

熟した杏は、
陽の光を浴び、
黄金の粒となって輝く。
村人は誰も気にすることなく、
旅人が手を伸ばせば、それを受け取る。
「これは誰のものでもない」
「ただ、ここにあるものだ」

果実を手に取り、
指先で転がすと、
その表面は驚くほど滑らかで、温かい。
口に入れると、
甘みと、ほのかな酸味。
それは、どこか懐かしい味がした。

かつて、ティミスガムは交易の拠点だった。
隊商たちが行き交い、
塩や羊毛、香辛料がここで取引された。
しかし、時代は流れ、
交易路は別の道を選び、
村は静寂の中に取り残された。

だが、この杏の木だけは、
変わることなく、ここに立ち続けている。
果実を実らせ、
誰かの手のひらへ、静かに落ちる。

沈黙の中、
旅人は、その甘みをかみしめる。
それはただの果実ではなく、
この土地に流れる、目に見えない記憶の味。

遠く、風が吹く音が聞こえる。
杏の木の枝が揺れ、
また一つ、果実が落ちる音がした。

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王の城跡、風だけが知る物語

ティミスガムの村を見下ろす丘の上に、
崩れかけた石の壁が残されている。
それは、かつて王の居城だった場所。
今では、ただの廃墟。
風だけが、この城の歴史を知っている。

かつてここに、
ラダックの王が住んでいたという。
この地を見渡し、
遥か遠くの峠を越えてやってくる隊商たちを迎えた城。
しかし、その時代は過ぎ去った。
人々はこの場所を忘れ、
城はゆっくりと崩れていった。

今、ここに立てば、
王の影はどこにもない。
石壁は欠け、
かつての部屋は、ただの空洞になり、
床の上には、乾いた砂が降り積もる。

しかし、何かがまだここに残っている。
それは、目には見えないもの。
時の流れに埋もれた何か。

丘の上に立ち、
旅人は風に身を預ける。
乾いた風が吹き抜け、
遠くの山々の稜線をなぞるように流れていく。

王はどこへ行ったのか。
その答えは、誰も知らない。

しかし、風だけは知っている。
それは、城の隙間を抜けながら、
囁くように語り続けている。

旅人は、静かに耳を澄ます。
だが、風の言葉を理解できる者は、
もうこの世界にはいない。

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道の果て、そして旅の始まり

ティミスガムを過ぎると、道はゆっくりと下り坂になる。
細くなった小道が谷へと続き、やがて広がる大地へと消えていく。
そこが、シャム渓谷の終わり。

旅の始まりは、いつも明確だった。
しかし、終わりは、いつも曖昧だ。
道が終わるからといって、旅が終わるわけではない。
むしろ、ここからが始まりのようにも思える。

背後には、歩いてきた道がある。
峠を越え、村々を通り、
風の音を聞き、
静寂の中で星を見上げた日々。
すべてが、今この瞬間につながっている。

だが、旅はただの移動ではない。
旅とは、心に残る何かを持ち帰ること。
それが、風の冷たさであれ、
祈りの旗の色であれ、
村の静寂であれ、
旅人は必ず、何かを持ち帰る。

そして、それを持ち帰ることで、
旅は続いていく。
身体がどこにあろうと、
心の中には、まだ道が続いている。

足元の道は、
やがて大きな川へとつながる。
その向こうには、新しい道がある。

旅が終わることはない。

風が吹く。
旅人は、一歩踏み出す。

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デクラン・P・オコナー

作家、旅人、そして忘れられた物語の探求者。
風の吹き抜ける風景と、時を超えた道の静寂を綴る。