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味で巡るラダックの旅:ソバ畑からバター茶の儀式まで【ラダックの食文化体験】

空に触れる大地 - ソバと大麦と大地の物語

レーの埃っぽい路地と、遠くにきらめく仏塔を越えたその先で、大地はまるで別の呼吸をしているようでした。ヒマラヤの中心で、ソバ大麦の畑がどこまでも広がり、何千年も前から吹き続けてきた風が、空へ向かって伸びるその作物たちを撫でていました。

ラダックでは、穀物は単なる栄養源ではありません。それは生き方であり、土地のアイデンティティです。秋の収穫期、テガルの村を訪れたとき、私はその大地の静けさと力強さに包まれました。宝石のような衣をまとった女性たちが、黄金色の麦畑の中で黙々と働き、笑い声が冷たい空気の中にふわりと浮かんでいました。彼女たちの手は、代々受け継がれてきたリズムで動き、大地と文化を結ぶ静かな絆を編み上げているようでした。

この乾燥した高地の砂漠では、農業は空との対話です。その中で生き残るために選ばれたのが、ファパール(ソバ)裸麦(ナキッドバーリー)。どちらも強く栄養豊かで、ラダックの食文化の土台を成しています。家庭から漂うツァンパ(炒り大麦粉)の香ばしい香りは、母の抱擁のようにやさしく感じられました。水は乏しく、冬は厳しい――それでも、この古代の穀物たちは、命を支える力を持っているのです。

農夫がソバを手に取り、空中に舞わせながら脱穀する姿を見つめていると、その動きがまるで踊っているように感じられました。通訳を通じて話を聞くと、彼の家は200年以上にわたってこの畑を耕してきたそうです。「ソバがなければ、生きていけません」と彼は言いました。その笑顔の奥には、石だらけの大地から収穫を得てきた祖先たちの記憶が滲んでいました。

ラダックで、素朴なソバのパンケーキを食べたり、大麦のスープをすすることは、歴史の一片を味わうことに似ています。その味は派手ではありませんが、深く心に残ります。標高、気候、自然との関係が、そのまま味に表れています。一粒の穀物を収穫することは、小さな勝利であり、大地からの静かな愛の手紙でもあるのです。

夕日が山々の背後に沈み、青く長い影が畑に広がっていくとき、私は気づきました。ラダックでは、風景はただの背景ではなく、命を支える存在なのだと。そしてその土地の穀物を味わうとき、その魂に少しだけ触れられる気がするのです。

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家の中心にある火 - 素朴な料理と神聖な意味

ラダックでは、家の中心は大きな居間でも飾られた玄関でもありません。本当の心は台所にあります。煙で少し曇ったその空間には、伝統と暮らしが温かく混ざり合っています。ある寒い夕方、テミスガムの村で招かれた家の台所で、私は今でも忘れられない時間を過ごしました。

その家の台所は石造りの小さな部屋で、長年の煙が壁を黒く染めていました。中央には鉄のストーブが置かれ、ポプラの細い枝が薪として燃えていました。小さな真鍮の鍋が火のそばで光り、空気には大麦やバター、煮えた野菜のやさしい香りが漂っていました。そこはただの調理の場ではなく、命の鼓動が宿る場所でした。

私は織物の敷かれた床に座り、家のおばあさんがスキュ(ラダックの伝統的なパスタシチュー)を作る様子を見守りました。彼女は熟練の手つきで小さな生地をちぎり、鍋の中の野菜と一緒にゆっくりと落としていきます。その一つひとつの動作は、急ぐことのない、祈るような落ち着きに満ちていました。周囲では家族がラダック語で穏やかに話し、言葉は分からなくても、温かい空気と気持ちはすぐに伝わってきました。

ここでの食事は、単なる食べる行為ではなく、感謝の儀式です。スキュやチュタギ(蝶結びのような形のパスタスープ)のような料理には、厳しい自然と向き合いながら受け継がれてきた生活の知恵が詰まっています。豪華ではなくても、そこには自然への敬意と、家族の力がしっかりと込められています。

食事の前に、窓の外へスープを少しだけ捧げる場面がありました。これは大地の精霊への感謝を表す儀式であり、見えないものに敬意を払ってからでないと、本当の食事は始まらないのだそうです。私はそのスキュを口に運び、麦とカブの甘さがじんわりと広がるのを感じながら、この地の本質に少し触れた気がしました。

ラダックの家庭では、食事に急ぐことはありません。お茶と一緒に会話が進み、笑い声が湯気のようにふわっと立ちのぼります。食べるという行為は、日々を共に生きる者同士の絆を深める時間です。その日の夕食を焼きたてのパンで拭い取るように食べ終えたとき、私はこう思いました。ラダックでは、一皿の料理が、静かに語りかける物語なのだと。

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バター茶という詩 ― 塩と脂の物語

ラダックのバター茶について、初めて耳にしたとき、私は半信半疑でした。旅人たちは、その驚くほどの塩気や、唇に残るバターの膜、そして標高の高い朝に身体を満たす不思議な温かさについて語っていました。でも、どんな説明も実際の味にはかないません。ポチャと呼ばれるその一杯には、山の民の知恵と詩が詰まっていました。

ヘミス近くのある小さな僧院で、私はその聖なる飲み物が作られる様子を見ていました。木製の背の高いチュルン(撹拌器)の前に、ひとりの僧侶が立ち、黒く濃いお茶に大きなヤクのバターの塊とヒマラヤの粗塩を加えていきます。彼の手が上下に動くたびに、泡が立ち、音が響き、空気にはじんわりとした香りが漂ってきました。そのリズムはまるで山の鼓動のようでした。

バター茶は贅沢な飲み物ではありません。それは生きるための飲み物です。村々が雪に閉ざされ、空気が肌の水分さえ奪ってしまうような冬、脂と塩と熱は、生きるために必要な三要素。ポチャを飲むことは、何世代にもわたって受け継がれてきた暮らしの知恵そのものなのです。

私の最初のひと口は、思わず眉をひそめるものでした。塩気が舌を刺し、バターが口の中にまとわりつく。戸惑いながらも、それが喉を通って体の奥に広がったとき、まるで胸の中に火が灯るような温かさが満ちてきました。外では風が唸りをあげていましたが、手の中の素焼きのカップが、どこか守られているような気持ちをくれました。

ラダックでバター茶を共にすることは、もてなしと信頼の証です。家庭でも僧院でも、一杯のバター茶は「あなたはここに歓迎されています」という無言のメッセージ。断ることはほとんどなく、受け取ることは文化そのものを受け入れることです。

私は編まれた敷物の上に座り、笑顔の僧たちから何度もおかわりをもらいました。その瞬間、私は気づきました。バター茶はただの飲み物ではなく、祈りそのものなのだと。塩辛く、濃厚で、謙虚で、そして永遠に続くような存在。自然と共に生きるという意味を、そっと胸に落としてくれる味でした。

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アンズとチュルペ ― 保存の技と美しさ

標高3500メートルの地で生き延びるということは、ある種の優雅さを必要とします。ラダックでは、冬になると大地が氷に閉ざされるため、保存食は単なる技術ではなく、知恵と忍耐によって磨かれた芸術なのです。その美しさは、ヒマラヤの家庭にある干し果物やチーズにこそ表れています。

スカルブチャンという村で、私はある家庭の中庭に通されました。そこには、夏の記憶のように鮮やかなアンズが、手編みのマットの上で太陽の光を浴びながら並べられていました。そのオレンジ色は、荒々しい景色の中で小さな灯のように輝いており、一人の女性がしわの寄ったアンズを手に取り、私に差し出してくれました。一口かじると、それは果物ではなく季節そのものを味わうようでした。

ラダックのアンズは、ただの果実ではありません。古代の交易路を通じてこの地にもたらされ、今ではこの地の文化と農業の一部として欠かせない存在です。どの家庭にもアンズの木があり、夏になると一斉に収穫、スライス、乾燥が始まります。村中に広がる甘くふくよかな香りは、やがて冬の糧となるものです。

そしてアンズと並んで忘れてはならないのが、チュルペ ― ヤクの乾燥チーズです。台所の隅にそっと置かれた小さな石のような塊。その正体は、バターミルクを発酵させ、何週間もかけて乾燥させた、保存に優れたチーズ。冷蔵庫などないこの高地で、チュルペは貴重なタンパク源であり、旅の供でもあります。

初めてチュルペを口にしたとき、私はそれが歯を折ってしまいそうなほど固いことに驚きました。すると年配の女性が笑いながら、「頬に入れて、ゆっくり柔らかくなるのを待つのよ」と教えてくれました。まさにヒマラヤ版のスローフード。何時間もかけてようやくとろけ出すその味は、まるで大地そのものを口にしているような、野性的で深いものでした。

ラダックでの保存文化は、自然に抗うのではなく、自然と調和することによって生まれました。短い夏の恵みを乾燥させ、発酵させ、慈しむことで、ひと皿ひと皿に生命力が宿るのです。アンズ一粒、チュルペ一欠片に込められたその粘り強さと誇りは、この土地で生き抜く人々の強さの証でもあるのです。

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発酵の歓び ― チャンと祝祭の時間

ラダックの村々で聞こえる音の中で、心にしみるものといえば、お祭りのときに響く笑い声、そして素焼きのカップが重なる柔らかな音――そう、チャンの注がれる音でしょう。大麦から作られる地酒チャンは、標高の高いこの地に生きる人々の喜びとつながりを育む大切な存在です。

ある午後、私はアルチ近くの村を訪れ、太鼓の音と鮮やかな衣装に誘われるように、収穫祭に足を踏み入れました。これは一年の労働と実りを祝う大切な祭り。歌と踊り、そして何より世代を超えて受け継がれてきたチャンがふんだんに振る舞われていました。

私の手に渡されたのは、素朴な素焼きのカップ。中の液体は少し濁っており、どこかパンのような酵母の香りが立ち上ります。一口飲むと、ほんのり温かく、喉を通ったその瞬間、チャンは記憶の中に刻まれる飲み物なのだと気づかされました。そこには畑の香り、隣人との笑い声、大地への感謝がすべて詰まっていたのです。

ラダックのお祭りは、騒がしさよりも自然のリズムに寄り添っています。ゆっくりと、穏やかに、そして深く。私のまわりでは、おばあさんたちがカップを鳴らしながら、昔の恋や冒険の歌を口ずさみ、子どもたちはアンズのジャムで手をべたべたにしながら走り回っていました。僧侶たちは静かに祭りを見守り、食卓にはスキュル(発酵ヨーグルト)、ローストされた大麦のパン、干し果物などが並びます。

チャンは、つながりの儀式。それを飲むことは、この地の人々、畑、山々、季節すべてとの関係を受け入れることです。ひと口の中に感謝があり、静かな祈りが込められているのです。

太陽が山の向こうに沈み、空が桃色から金色へと変わっていく頃、私はカップをもう一度掲げました。太鼓の音が体の奥に響き渡る中、私は感じていました――ラダックの祝いは、ただの収穫の喜びではなく、命そのものを讃える瞬間なのだと。

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本物のラダックを味わう場所 ― レストランのメニューには載っていない体験

ラダックを味わうということは、レーのカフェを巡ったり、メニューに載っているモモやトゥクパを注文することではありません。本当の味は、石造りの台所や、家庭の中庭、観光化されていない日常のリズムの中にひっそりと息づいています。

もしあなたがラダックの魂に触れたいなら、レストランガイドを閉じてください。そして、村のホームステイや地域の食事に身を委ねてみてください。シャヨクやウレイトクポ、ヘミス・シュクパチャンのような村では、地元の家族が旅人を受け入れてくれます。彼らは観光客のためではなく、自分たちの暮らしをそのまま分け合ってくれるのです。そこで食べる料理は、盛りつけではなく、季節と土地の声がそのまま味になっています。

ある晩、私はシャム・バレーの家庭で、家族とともに台所の床に座りました。主婦は、古くから使われているおたまでぐつぐつと煮えるチュタギ(蝶結び型のパスタスープ)をかき混ぜていました。英語は通じなくても、笑顔や手ぶり、そして湯気の立つ一杯がすべてを語ってくれました。スープに入っていた野菜は自家菜園から、麦は手挽き、そして水は村の泉から汲まれたもの。ひと口ごとに物語が染み込んでいるような味でした。

こうした家庭での食事は、味だけでなく、ラダックの暮らしそのものを感じさせてくれます。早朝にはゾや牛の乳しぼりに立ち会い、屋根の上ではアンズが太陽に照らされて干されていきます。子どもたちは山の空気に頬を染めて帰ってきて、焼きたてのそばパンを頬張り、祖母たちは毛織の衣をまとって、静かにバター茶をすする――そのすべてが、ラダックという場所の深さを教えてくれるのです。

もしあなたが旅に食の体験を求めているのなら、フードツアーや村でのホームステイは欠かせない選択肢になるでしょう。こうした旅には、小さな農園の見学やパン焼き体験、さらには地元のおばあちゃんにスキュの作り方を教わるような機会が含まれていることもあります。そこには完璧な料理などありません。ただ、大地と食卓のあいだに流れる静かな時間があるだけです。

だから、ラミネートされたメニューも、洗練された演出も手放してみてください。ラダックで味わうべきものは、偶然出会う一杯のスープだったり、星空の下で食べる大麦のシチューだったり、炉端で焼かれたばかりのそばパンだったりするのです。ここでは、味わうことが旅になり、食事が「そこにいること」の証になるのです

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記憶の味、地図としての味

ラダックの曲がりくねった道を離れ、祈祷旗や石造りの家々が記憶の中でやわらかく霞んでいったあとも、味だけはずっと心に残っていました。塩味のバター茶を一口すすると、あの暖炉の炎がよみがえり、チュルペの酸味が収穫の歌声を運び、干しアンズの甘さが秋の夕暮れを思い出させてくれるのです。ラダックでは、食べ物は栄養ではなく記憶を刻むための地図のようなものなのです。

旅をする私たちは、しばしば壮大なものを追い求めがちです。そびえ立つ山々や壮麗な僧院、広大な砂漠の沈黙。しかし、本当にその土地を知りたいなら、もっと小さなものに耳を澄ませなければなりません。ラダックの味は、厳しい自然の中で生き抜いてきた人々の物語を語っています。種をまき、収穫し、慎ましくも豊かな食卓を囲む中にこそ、その土地の魂が息づいています。

ラダックの食文化は、語られる物語そのものです。スキュの一杯には、地域の団結と生存の知恵が詰まっています。ポチャの一口には、僧侶たちと母たちの祈りがしみこんでいます。そうした食べ物を味わうことは、過去から現在、そして未来へとつながる会話に耳を傾けることなのです。

本物の体験を求める旅人にとって、ラダックの料理の伝統は何よりも貴重な入り口です。それは贅沢ではなく、飾られた演出でもありません。少しの忍耐と敬意、そして心を開いて訪れる覚悟が必要ですが、その先には深く染み入る出会いが待っています。そこには「自分がここにいてもいい」という感覚が生まれるのです。

あなたがこの高原の地を旅するなら、ぜひ「見る」だけでなく「味わう」ことを選んでみてください。手で脱穀された麦の香りを感じ、囲炉裏のそばでバター茶を飲み、アンズの干し果実をひとつ差し出されたら、迷わず受け取ってください。そのすべてが、この地の暮らしへの静かな入り口なのです。

ラダックでは、記憶は目ではなく、口と心で刻まれていきます

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著者について

エレナ・マーロウはアイルランド出身のライターで、現在はスロベニアのブレッド湖のほとりにある静かな村で暮らしています。

土地の記憶、人々の暮らし、そして目立たない美しさを見つけ出し、言葉にすることをライフワークとしています。旅先では観光地を離れ、誰かの台所や、石造りの路地裏、風にゆれる布の音の中に耳を澄まします。

彼女の物語は、読者にただ「行く」のではなく、「感じる」旅を促します。ラダックの山間の村から、スロベニアの森の中の小道まで、彼女の筆は静かに世界を描き出します。

旅していないときは、アルプスの森を歩き、ハーブの手入れをし、次の旅の空想にふけりながらお茶を飲んで過ごしています。