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食べるという季節の契約——ラダックの実践を現代西洋の暮らしへ

季節へ戻す一週間

文:Sidonie Morel

冬のはじまり——ひと月だけに存在する味

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ラダックでは、台所が「貯蔵されたもの」で時間を刻む。年の終わりが近づき、夜がいっそう鋭くなり、水の容器の縁が薄く凍りはじめる頃、現れる合図は飾りではない。どれも実務だ。杏は割られて平らな屋根の上に並べられ、直射日光で干される。青菜はさっと茹でられ、布の上に薄く広げられる。大麦粉の袋は湿気を避けるように口を固く締められる。瓶は開けられ、縁が拭かれ、また閉じられる。手の届く場所に作業が収まっているのは、冬が外で過ごせる時間を短くするからだ。

途切れなく食材が供給されるヨーロッパの台所から見ると、季節に沿って食べることは好みの問題に見えるかもしれない。けれどラダックでは、それはむしろ方法に近い。食は、短い生育期に生産できるものと、道路が閉ざされたり移動が遅くなったりする数か月を越えて持ちこたえられるものに従う。味は意図的に変わる。保存のために塩気が増え、発酵によって野菜が「生」から先へ持ちこたえられる場所では酸味が増える。寒さが燃料の消費と食欲を増やすと、穀物や汁ものが重くなる。合言葉は要らない。条件が選択を説明している。

これが「季節の契約として食べる」という発想だ。いまその月が差し出すものを受け入れ、次の月が求めるものに向けて——たとえささやかでも——準備する。ラダックでは気候が契約を強制する。ヨーロッパでは、誰かの暮らしを真似たふりをせずに、週に一度の小さな実践として選ぶことができる。

ライフスタイルの看板ではなく、家の方法としての食

私が入ったことのあるラダックの台所の多くはコンパクトで、貯蔵と熱を中心に組み立てられている。棚は思うより高い位置にあり、湿気や齧歯類から離れている。缶は硬い音を立てて閉まる。布袋は結ばれ、二重に結び直される。窓は光のため、そして選別のために使われる——レンズ豆は小石がないか確かめられ、乾燥させた青菜は、柔らかく戻るのではなくパリッと仕上がるように返される。物干しは素朴な風情ではない。インフラだ。

乾燥は外で行われるので、いちばん目に見えやすい。発酵や酸味づけはもっと静かだが、よくある。安定した隅に置かれた瓶、日ごとに移り変わる味。煙は美学としてではなく、燃料と密閉された調理の副産物として現れ、冬の食に印をつける。脂が手に入るときは、丁寧に使われる——温まるため、働くため、水や燃料や飼料を運ぶ身体の労力のために。

ラダックで食の話をすると、話題はすぐに「時期」と「保存」に寄っていく。どのじゃがいもがいちばん長持ちするか、空気が湿りはじめる前に干すならどの週がよいか、どの封が効くか、道が開いているときに買えるものは何か、家で作らなければならないものは何か。ヨーロッパの食の言葉——最適化、罪悪感、「良い/悪い」——は、その文脈ではあまり役に立たない。ラダックの言葉は、できることの近くに留まる。

季節の契約とは、実際には何か

季節の契約は誓いではなく、演出でもない。ごく単純な二つの行為を、普通になるまで繰り返すことだ。ひとつ目は受け入れである。どんな味も常に手に入ると期待するのをやめる。一月を、物流で解決すべき問題として扱わない。特定の食材と特定の調理法をもつ「ひとつの月」として扱う。

ふたつ目は準備である。忙しいときでも季節に沿って食べやすいように、少数の常備の核を持っておく。ラダックでは冬が長く厳しいため準備は大がかりになり得る。けれど西洋の生活では、控えめでも十分に役立つ——何か一瓶の発酵食、乾燥豆の袋、部分に分けて冷凍したブロス、乾燥ハーブ、あるいは数日ではなく数週間もつように保存した野菜。

契約がうまく働いているかどうかを確かめる実用的な方法は簡単だ。いま食べているもので「何月か」がわかるか。ラダックでは、パントリーと市場が目に見える段階で変わるので、多くの人が答えられる。ヨーロッパではその合図が平坦化しがちで、契約はそれを少し取り戻すための方法になる。

現代ヨーロッパの「一年中同じ味」問題

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スーパーマーケットは効率的だ。リスクを減らし、選択を広げる。けれど同時に、時間を平らにする。冬でもトマトが現れる——光の下で育てられたり、遠くから運ばれたりして。畑が裸の季節にいちごが届く。天候に関係なく、ハーブがプラスチックのスリーブに入って並ぶ。かつては違う味がしたはずの月々を通して、同じサラダが繰り返せてしまう。

季節が食を形づくらなくなると、食は「終わりのない意思決定」の領域になる。人は新奇さを追い、あるいは無限の選択肢を規則で管理しようとする——マクロの目標、サプリ、許可された食品のリスト。言葉は管理的になる。その一方で、古い合図——豊穣、欠乏、保存、春の最初の青菜——は薄れていく。

これは現代の供給に反対する議論ではない。味から時間が取り除かれたとき、何が消えるかという観察だ。「季節の契約として食べる」は、新たなアイデンティティを背負い込むことなく、わずかな構造を戻してくれる。

その月に従う、週に一度の食事

ラダックから現代の西洋生活へ、いちばん簡単に翻訳できるのは「週に一度、好みや習慣ではなく季節に従う食事」を持つことだ。週に一度で十分、反復が生まれる。仕事、子ども、移動、市場へのアクセスの制約がある人にとって、丸ごと一週間は現実的でないことも多い。強度より反復のほうが大切だ。

その日を、守るつもりの予定として選ぶ。日曜の昼でも、金曜の夜でも、ふだんテイクアウトに頼りがちな夜でもいい。いちばん徳の高い日が最善ではない。実際に起こる日が最善だ。街に市場の明確なリズムがあるなら、それに食事を結びつけられる。根菜がトマトを押しのける最初の週、かぼちゃが潤沢になる週、柑橘が山と積まれる週、魚の種類が変わる週。

ルールは見える場所に置き、簡単にする。いま地元で豊富なものを使う。季節に合う調理をする——冬は長く煮込み、夏は手早く、秋はローストを増やす。そこに保存の要素をひとつ加える——発酵、漬け込み、乾燥、あるいは貯蔵——そうして準備とつなぐ。その小さな一手が、契約を手触りのあるものにする。

レシピにしないままの、季節ごとの論理

冬と春

ラダックの冬の食は、名前の付けやすい制約に形づくられている。凍てつく夜、限られた生鮮、塞がれる道路、燃料と水の慎重な管理。その結果もまた、名前の付けやすいものになる。穀物、豆類、貯蔵した根菜、乾燥した青菜、そして熱を保つスープやシチュー。ヨーロッパの等価物に必要なのは模倣ではなく方法だ。冬の季節の一食は、豆やレンズ豆、根菜、穀物、ブロスで作る温かい一椀にできる。仕上げに酸味または発酵の要素をひとつ——ザワークラウト、ヨーグルト、発酵チリのスプーン一杯、レモン——そうすれば食事に骨格ができ、重さだけに頼らずに済む。

高地の春は段階的だ。その論理は「軽くするが、油断しない」。青菜が戻り、苦味が戻り、ハーブが再び現れる。春の季節の一食は、簡単な基準で組み立てられる。いま本当に地元で新しく出回る緑の要素をひとつ、貯蔵できる主食材(豆、穀物、じゃがいも)をひとつ、そして鋭い要素(酢、発酵、柑橘)をひとつ——それが冬の調理からの移行を印づける。

夏と秋

夏は新鮮さとスピードを許す。論理は「新鮮なものが存在するうちに使う」。ヨーロッパでは市場が満ち、調理も手早くできる季節だ。それでも季節の契約は、保存の小さな行為ひとつで力を得る。ハーブを干す、トマトをローストして冷凍する、クイックピクルスを一瓶作る。すべてを保存する必要はない。何かを保存することが大切なのだ。季節が終わった瞬間に消えてしまわないように。

秋は、台所がふたたび先のことを考え始める季節だ。ラダックでは冬が交渉なしに来るので、乾燥と貯蔵が強まる。ヨーロッパでは、生活のルーティンが戻り、市場が「持つ野菜」へと移る——かぼちゃ類、アブラナ科、りんご、玉ねぎ、じゃがいも。調理はローストや煮込みへ寄りがちになる。冬に向けて、劇的にならずに保存品をひとつ作れる季節でもある。ザワークラウト一瓶、チャツネ、豆を煮て小分け冷凍。契約はテーマではなく準備になる。

月と月をつなぐ橋としてのパントリー

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ラダックでパントリーは趣味ではない。連続性だ。過ぎた季節が、目の前に座っているのが見える。日差しの季節の干し杏、早い時期に挽いた粉、かつては生だった青菜がいまは脆く乾いている。冬の食には、夏と秋の痕跡が「変化した形」で含まれている。

西洋のアパートでも、より小さな版を作れる。まずは繰り返せる保存の実践をひとつ。発酵はたいてい最も簡単だ。千切りキャベツと塩を、自分の水分の下に押し込む。にんじんをスティックに切る。瓶を涼しい隅に置き、一日に一度様子を見る。乾燥も、温かい部屋にハーブを吊るす、果物の薄切りをゆっくり乾かす、といった素朴なことで足りる。冷凍もまた保存であり、後の労力を減らすという点で同じ働きをする。

大切なのは洗練ではない。時間をまたぐ「見えるリンク」を作ることだ。十月に作った瓶を真冬に開けるとき、理想の食事法を追いかけているのではない。準備で摩擦を減らし、年の輪郭をもう一度見えるようにしているのだ。

普通のままにしておく

季節に沿って食べることは、公のアイデンティティになると脆くなる。ラダックではその仕事は私的で反復的で、その私性が続く理由のひとつでもある。週に一度の季節の食事を続けたいなら、それを家の道具として扱うことだ。

繰り返しやすくする。冬は同じ鍋を使う。少数の常備の棚を作る。常に新しいものを探すのではなく、小さな料理のセットを回す。誰かのために料理するなら、テーマを宣言しない。その月として筋の通るものを作る。ひとりで食べるなら、テーブルに座る。実践は「いまあるもの」を気づくことにかかっているからだ。根菜、穀物、保存された酸味の一手、数週間だけ現れるハーブ。

時間が経つと、変化は普通のかたちで見える。買い物は速くなる——すべてを探して棚を眺め回すのをやめるから。料理は安定する——季節ごとに合う方法を繰り返すから。年は台所に戻ってくる。思想としてではなく、現れて、頂点を迎え、消えていく食べ物の連なりとして——そしてまた戻ってくるものとして。

Sidonie Morel は Life on the Planet Ladakh の物語の声であり、
ヒマラヤの暮らしにある沈黙、文化、そしてしなやかな強さを探るストーリーテリング・コレクティブの一員です。