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台所にまで忍び寄った雪解け

バケツが軽すぎる朝

By Sidonie Morel

最初に聞こえるのは金属音

太陽が出る前から、一日はもう重さを持っている

Ladakh water crisis
朝は、小さな暴力のような音から始まる。金属が金属に当たる音、バケツの持ち手が小刻みに鳴る鋭いチリンという響き、まだ半分眠った手が少し強くふたを置いてしまう鈍い音。ラダックの朝の光は、甘やかさない。澄んで淡く、壁の縁に沿って薄い刃のように差し込み、こちらが見たくもないものまで照らしてしまう。戸口の上に乗った粉っぽい乾き、昨日の風があと一ミリだけ広げた漆喰のかすかな割れ目、昨日の茶殻が「また使えるかもしれない」とでも言うように隅へ掃かれていること。

私は、その音で目を覚ます。台所がいちばん暖かく、同時にいちばん正直な部屋で。何度も冬を越してきたストーブは、頑固な動物みたいに熱を離さない。床はここだと少しだけ優しく感じる。冷たい板というより、私たちの足取りを覚えてしまった面みたいに。薄暗い中では、触れることで大事なものがわかってくる。木のおたまのざらりとした木目、冷たい水が急に来たときの刺すような感覚、手のひらが自分の仕事を覚えている生地のやわらかな沈み。

ここで、気候は親密なものになる。雪解けは見出しではない。バケツへ視線を落としながら投げかける問いだ。今日はどれだけ入った? ほんの数年前まで、その問いは畑や水路のほうにあった。外で、水が細く従順な線を描いて流れていた場所に。いまはストーブのそばにある。雪解けは台所まで届いた――比喩としてではなく、日課の中の変化として。大げさなドラマを探していると、見落としてしまうほど小さい変化として。

晩春の冷えた朝、水には本来あるべき鋭さと、ある種の安定があるはずだ。ところが水は、どこか心もとないやり方でやって来る――早かったり遅かったり、道を忘れた客みたいに。村によっては、氷河の融解や雪線の話を小声でする人もいる。けれど多くの場合、人はもっと身近なことを言う。以前は出ていたのに、いまはためらうような蛇口のこと。決まった時間に水を運んでいた水路が、いまは気まぐれに来ること。大きな言葉よりも頼りになる、実用の語彙がある。順番流れ時間取り分修理

外へ出れば、稜線の高いところに白さがまだ残っていて、旅人はそれを安心材料と取り違えるかもしれない。だが変化の最初の証拠は、決してあそこではない。ここにある。水がコップ単位で量られ、一日のリズムが、謝りながら鍋に水を満たす必要があるかどうかで左右される場所に。

氷から鍋までの長い道のり

水路が運ぶのは水だけではない

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ラダックで何が起きているのかを理解したいなら、忍び深い語り手の話を、辛抱強く追う人のように、水を追わなければならない。水は一度にすべてを語らない。断片として、途切れとして、季節と季節のあいだの気まずい間として届く。

道筋は驚くほど単純だ。雪と氷、融雪水、沢、水路、貯水槽、蛇口、バケツ、鍋。だがその鎖の一つひとつが、熱に、がれきに、時間のずれに、そして「別の気候」を前提に組み上げられた仕組みに起きる小さな故障に、脆くさらされている。水路は単なる地面の線ではない。目に見える形を取った社会的な合意だ。乾いた土地が人の住む場所であり続けるために必要だった、古く細やかな取り決め――誰が最初に水を受け、誰が待ち、誰が修理し、誰が費用を負担し、石と泥で破れ目を塞ぐやり方を誰が覚えているのか。その、複雑な交渉の名残を映している。

村の路地では、水路が細い相棒のように道の脇を走ることがある。明るい時間には無害に見える――薄い帯がきらりと光り、ときどき葉が流れに引っかかるだけ。けれど耳を澄ますと、水の下に別の音がある。砂粒がこすれる音、沈泥が立てるかすかなシューという音。雪解け水は、流れが速くなったり、突然の脈動のように押し寄せたりすると、より多くの土砂を運び得る。水路は想定していなかったものまで飲み込まされる。詰まれば、負担は手元へ戻ってくる。誰かが石を持ち上げ、泥のたまりを掘り出し、がれきの塊を脇へ押しやる。英雄的ではない。ただの火曜日だ。

氷河の融解は「豊かさの時期があって、そののちに失う」と語られがちで、その弧には真実がある。雪解け水が増える時期があり、やがて蓄えが薄れ、仕組みが揺らぎ、タイミングが不確かになっていく。だがその曲線を最初に体験する感覚は、豊かさではない。不規則さだ。農家は詩で灌漑できない。必要なのは、ある時間、ある流量、ある約束。約束が揺らぐと、不確かさはあらゆるものへ染み出していく――播種の日取りへ、飼料へ、結婚式や葬儀に出て家を空けても水の順番を逃さないでいられるかという判断へ。

私たちは水を純粋に自然の事実だと想像しがちだが、ラダックでは水はすでに管理された関係だ――標高と家、冬と仕事のあいだの。気候変動がその関係を作るのではない。割り込むのだ。そして割り込みは、ここでは抽象ではない。乾いた風で唇が裂けること、運び続けて肩が痛むこと、そして何杯の茶を出せるかを黙って計算し、無駄遣いしているような気持ちになっていくこととして現れる。

台所が帳面をつけている

静かな適応としての料理

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台所では、適応は演説なしにやって来る。淡々とした顔で積み重ねられる、小さな決定の連なりだ。誰かが流しっぱなしの蛇口ではなく、ボウルで野菜をすすぎ、そのすすぎ水を植物のために取っておく。誰かが皿洗いの泡を少し控える。石けんが貴重だからではない――貴重なこともあるけれど――水が貴重だからだ。誰かが効率よく湯を沸かすやり方を覚え、鍋に早めにふたをし、洗い物が少なくて済む献立を考える。「効率」という言葉は、バター茶の匂いがする部屋では、どこか管理的で、少し無粋に聞こえる。でも実践はやわらかい。ただ、不用意にならない技術なのだ。

声高に名乗らない家の知恵がある。女性が器から器へ水を移すとき、その動きがあまりに滑らかで、動いたことさえ見えないように感じること。最後に使える一滴まで拾うようにカップをくるりと回すこと。手の縁を使って生地を器からきれいにこそげ取り、器をこする手間を減らすこと。これらは「コツ」ではない。乾いた土地で世代を超えて形づくられてきた習慣であり、いまは新しい不足――しかも予測しづらく、そのぶん疲れる不足――によって、さらに締め直されている。

日によって、水にかすかな土っぽさが混じることがある。上流の攪乱で運ばれた沈泥か、流量が少ないときに強まる鉱物の味か。味を天気の一部として感じ取るようになる。子どもが「お茶の味が違う」と言い、年長者は何も言わずに、もう一度やかんを火にかける。繰り返しが、昔の味を戻してくれるかのように。

外の人間として、この慎ましさをロマンチックに見たくなる誘惑がある。私はそうしないようにしている。慎ましさは美学ではない。必要なのだ。そして必要は作法を形づくる。客にはいまも茶が出され、食べ物が出され、暖かい場所へ招かれる。水が乏しくなったからといって、もてなしは消えない。代わりに、もてなしの隠れたコストに、主はより敏感になる。カップは少し小さくなる。洗いはより丁寧になる。笑顔は同じまま、その背後の計算だけが重くなる。

ヨーロッパの台所では、不足は概念として届くことが多い。ドキュメンタリー、政策論争、遠い場所の干上がった川床の写真。ここでは、雪解けはおたまに触れる。まな板に触れる。流しに触れる。個人的な部屋を、許可も求めずに気候のアーカイブへ変えてしまう。

ドラマにしたくない人たちが言うこと

足元を崩さない言葉

ラダックでは、水の話は不満として始まり、すぐに計画になることが多い。「今日は蛇口が弱い」と誰かが言い、1分もしないうちに、順番の確認、水路の掃除の必要、季節的にはもう凍らないはずなのに夜の冷えで管が凍ったかもしれないという話になる。語り口は実務的だが、その下では「何が普通か」という感覚が動いている。

「冬が短かった」と、ある男性は、隣人が頼りなくなったときのような調子で言う。彼は「地球温暖化」とは言わない。「居座らなかった」と言う。冬が、礼儀正しく長居していた客だったのに、いまはお茶も飲み終えないうちに帰ってしまう客みたいに。

別の人は「雪線が上がった」と言う。観光客向けの観察ではなく、暮らしを変える事実として。雪線は景色ではない。貯蔵だ。行けないのに依存している銀行だ。それが引けば、目立たない場所で欠落が効いてくる。飼料の乾き、灌漑のタイミング、二つの必要が重なったときに水が同時に行き渡らないストレス。

ときに話はもっと尖る。縮む氷河、妙な暖かさ、より厳しく感じる砂嵐。誰かがそれを口にし、別の誰かが肩をすくめる。信じていないからではない。信じることは道具ではないからだ。道具は、シャベルであり、石であり、予備の配管部品であり、漏れの直し方を知っているいとこへの電話であり、流れがその日のうちに失われないよう、近所で素早く集まって破れ目を直す相談だ。

この「大げさにしない」姿勢には、ある種の品がある。否定ではない。比例だ。ここでは昔からリスクとともに生きてきた。突然の洪水、土砂崩れ、厳しい冬、脆い収穫。雪解けが怖いのは、危険を持ち込むからではない――危険は馴染み深い。怖いのは、パターンを溶かしてしまうからだ。季節の糸をほどいてしまうからだ。パターンが消えれば、同じ確かさでは備えられない。反応モードで生きるしかなくなる。そして反応モードは、単発の危機とは別の疲れ方をする。

舌の上の熱、窓辺のほこり

大きな変化を示す小さな感覚の証拠

正午を過ぎるころ、太陽は鋭く、石でさえ触れば熱いと感じるほどになる。中庭では、濡れた跡がほとんど瞬時に乾き、白っぽい輪を残す。蒸発の小さな地図だ。ほこりが隅にたまる勢いも、どこか新しい。より細かく、よりしつこく、空気が別の質感を覚えたみたいに。

女性が日なたで毛布を持ち上げてはたくと、ほこりが煙のように立ち上る。煙の匂いではない。乾いた土と、急に温められた布の匂いだ。毛布にはほのかな羊の匂いがある。家に属する動物の匂い。こういう細部のせいで、気候変動という言葉は大げさに聞こえてしまう。大げさではないからだ。布がどう振る舞うか。肌がどう突っ張るか。水が、使う前にどう消えていくか。

午後、私は誰かが鋼のロタ(注ぎ口のない小さな水差し)から注意深く水を注いで手を洗うのを見る。水は冷たい。けれど、あるべきほど冷たくない。手を一度、二度と振り、残りの滴を同じ地面の一点に落とす。集めれば助けになるとでも言うように。その身振りは習慣だ。意味だけが深くなった。

何十年もここで生きてきた人たちに話を聞くと、よく比較へ戻っていく。「前は春がもっと遅かった」「前は雪が畑の上にもっと長く残った」「前はあの時間に水路を信じられた」。この「前」は、懐古のための懐古ではない。基準線を刻む方法だ。ヨーロッパにも基準線はある。でも私たちの基準は便利さでぼやけがちだ。干ばつはニュースの周期になり、雨が降れば忘れてしまう。ここでは忘れにくい。家が覚えているからだ。台所が覚えているからだ。日課が覚えているからだ。

台所まで届いた雪解けは、ひとつの瞬間ではない。ある日突然すべてが変わった、そんな劇的な日ではない。積み重なりだ。暖かい夜、薄い積雪、早い解け始め、増える沈泥、減る予測可能性、運ぶ時間の増加。静かな帳面の数字がずれていく。疲れた腕と、ストーブの前で下される小さな決定の中に記録されていく。

毎日、自分を修理して生きる場所

ケアのインフラ

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インフラという言葉は、コンクリートや管だけを指すかのように語られがちだ。ラダックでは、インフラは最初からケアを含んでいた。小さな不具合に気づき、大きくなる前に直す意思。水路が修理されるのは、政府の計画が命じるからではない。村が、それなしではやっていけないからだ。ひびの入った壁は塞がれ、漏れる管は巻き直され、沈泥で詰まった水路は掻き出される。仕事は反復で、反復は遠目には「強さ」に見える。近くで見ると、「別のことに使えたはずの時間」に見える。

ある午後、私は男性と一緒に、少し崩れた水路の区間へ歩く。土はゆるく、水が小さな破れ目を掘り、流れは誤った方向へ逃げはじめ、使い道のない地面の帯を濡らしている。彼は膝をつき、形を知り尽くした手で石を拾い、所定の場所へはめ込んでいく。泥を、慣れた圧で押し固める。泥は冷たく、ふいに匂いが立つ。濡れた土の匂い。鋭く、清潔で、土器の内側みたいな匂いだ。乾いた土地の夏に属する匂い――短く、貴重で、ほとんど驚きのような。

作業をしながら彼は、レーのいとこのこと、野菜の値段のこと、この前の冬が変だったことを話す。会話は作業の「周り」を流れ、作業について語るのではない。やがて水路はまた持ちこたえる。水は正しい線へ戻る。儀式はない。証拠は、細い帯の動きが前へ進み続けること――何事もなかったかのように。

この日々の修理こそが、問題の感情の核を露わにする。人は氷だけを失っているのではない。変わりつつある仕組みを、常に自分の手で補うよう求められている。修理は、名づけない喪失のかたちになる。続ける。繕う。台所を回す。そして、馬鹿げた気分にならずに一年を計画できるくらい、パターンが落ち着いてくれることを願う。

夜、やかんが待っている

一日が終わったあとに残るもの

夕方になると、別の冷えが来る。高地の、すばやく正直な冷えが、路地へ、扉の下へ滑り込む。台所ではストーブにまた薪がくべられ、やかんが置かれる。その音は、ほとんど優しい。部屋は茶の匂い、煙の匂い、粉ものの匂いがする。誰かが座り、手をこすり合わせる。手に温かさを思い出させるみたいに。

卓上では、カップが丁寧に並べられる。茶のための水はある。だが無限ではない。カップは、贅沢にではなく、十分に満たされる。人は話し、笑い、些細なことでやわらかく言い合う。被害者のようには振る舞わない。地理としての不足とともに生きてきた人々として振る舞う。そしていまは、別のふるまいをする不足――より不安定で、より読みにくい不足――に合わせて調整している。

「水危機」という言葉を思う。サイレンのように響く。ここでは、危機は、家の中へゆっくり侵入してくる変化には大きすぎて、うるさすぎる言葉だ。台所まで届いた雪解けは、もっと静かだ。軽いバケツ。遅い流れ。少し違う味の鍋の水。より慎重につくられる計画。締め直される習慣。同じ優雅さで茶を勧め、あとでカップをすすぐときに、ほんの少し丁寧になるホスト。

外は澄み、星は触れそうなほど近い。冷えは鋭い。闇の中で、どこかで水が動く音が聞こえる。水路か、管の中か。その音は、安心でもあり、脆さでもある。連続の音であり、同時に、数えられている音でもある。

Sidonie Morelは「Life on the Planet Ladakh」の物語の声であり、
ヒマラヤの暮らしに宿る静けさ、文化、そしてしなやかな強さを探るストーリーテリング・コレクティブを支えている。