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牧草地が動くとき―チャンタンの牧畜に宿る日常の建築

旅をせずに動きを教える高原

By Sidonie Morel

光が「予定」になる前に

Changthang herding
チャンタン高原では、朝は「到着しました」と告げるように始まらない。長いあいだ両手でカップを包み込んでいると、じわりと熱が移ってくる――あの温もりの滲み方で、朝は染み出してくる。最初に耳に入るのは、標高の高い土地から人が期待するような英雄的な音ではない。凱歌のような風も、映画的な静寂もない。かわりにあるのは、暮らしの音で、しかも正確だ。踏み固められた土の上をロープが擦れる音、テントの内側からの低い咳、まだ火が保つかどうか決めかねている炎の上に、やかんが自分の居場所を見つける音。

初めてチャンタンの牧畜について語ろうとしたとき、私は自分が間違った名詞に手を伸ばしているのに気づいた。「旅」が滑り込みたがり、「ルート」が続き、その次には、整いすぎた言葉――「移動」「遊牧」――が、まるで自分の暮らしより勇敢になった気分になるためのドキュメンタリーのように口へ上がってきた。けれど、ここで過ぎていく日々は、その枠組みを拒む。牧草地はたしかに動く。だがそれは「出来事」のようには動かない。この動きは、夕食の席で語る物語ではない。年をつなぎとめる静かな建築なのだ。時間をどう分けるか、食べ物をどう守るか、体が力を無駄にしないようにどう保つか、動物をどう読んで、ドラマ抜きでどう応じるか――そのすべてが、ここでは形を成している。

地図が欲しいなら、高原は断片だけを渡してくる。蹄が土を揉み続けて粉のように細かくなった擦り切れた斑点。スカーフに絡みつく、かすかな糞の煙の匂い。太陽が稜線を越えた瞬間、ヤクの毛の一本一本が光で編まれたように見えること。細部は小さい。けれど飾りではない。あれは指示だ。

日常の建築としてのチャンタン牧畜

天候とロープと習慣から組み上がる仕組み

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チャンタンの牧畜は、しばしば「生き方」として語られる。まるで、魂に合うから選べる柔らかな選択であるかのように。だが高原に出ると、それはむしろ「仕組み」に感じられる。実用的で、適応的で、少し厳格な仕組み。交渉をしない気候の内側で生きることを、長い時間をかけて学んできた仕組みだ。建築はテントや石の壁だけではない。離れることと到着することの振り付けでもあり、むき出しの世界を「耐えられるもの」に変える作業の連なりでもある。

私が会った牧畜の人たちは、「行く」という言葉を出発の高揚で語らなかった。語っていたのは、整えなければならないことだ。どの動物が準備できているか、どの動物には時間が要るか、どの動物は迷いやすいから近くに置くべきか。風が地面を十分に乾かしていて、移動しても雪解けの泥に沈まないか。遠くの肩のあたりにしぶとく残る雪線が、「押すより待つほうが賢い」と告げていないか。決断は大胆さとしては語られない。理にかなっているかどうかとして語られる。

物もまた規律がある。すべてに目的があり、手首に重さとして残る。バケツはただのバケツではない。こぼさずに運べる「水の形」だ。ここでは、こぼすことに結果がある。木の棒は素朴さの記号ではない。てこであり、支えであり、持つテントと、ばたついて自壊するテントの差だ。結び目は、きつく、無駄がない。あれは一種の言語だった。「これは風でほどけない」「これは修正のために時間を奪わない」。

だから私は、「伝統」より「建築」という言葉のほうがしっくり来る理由がわかり始めた。伝統は感傷になりうる。建築は働かなければならない。チャンタン牧畜は触れられるように作られている。肌にざらつくロープ。ラノリンで脂を帯びた羊毛。記念碑というより防風のための低い石壁。高原は賞賛を求めていない。求めているのは、手際の良さだ。

誰も待ってくれない牧草地

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外の人が好むイメージは、隊列だ。広い谷を横切って伸びる、動物たちの列。遠目にはロマンに見える、一本の動くリボン。だが近づいて立つほど、その場面は細部へと溶けていく。一頭が立ち止まり、石に体をこすりつけて痒みを取る。別の一頭は、地面の匂いが「違う」と言い張るように迂回する。子牛が群れの論理に従うことを拒む。動きは命令ではなく、交渉なのだとすぐに学ぶ。

牧草地そのものも、約束ではない。計算だ。草は、風に一度にすべてを奪われないように、地面に低く、近く育つことを覚えている。まばらで、そのまばらさゆえに貴重になる。放牧は抽象概念ではない。日々の判断だ。来季に戻るべきものを壊さずに、どれだけ取れるのか。牧畜の人たちの話し方――短く、実務的な言葉――を聞いていると、土地が舞台ではないことがわかる。土地は圧力を記憶する「作業面」だ。

ある場所が今年はだめだ、と誰かがほとんど何気なく言うとき、その人は景色の話をしているのではない。数か月先の動物の健康、乳の濃さ、子羊の強さ、冬を越すまでに痩せ細って無力になっていく体を、できるだけ多く見ずに済む可能性――そういうものの話をしている。牧草地が動くのは、年がそれを要求するからであって、動きが称賛されるからではない。

夏:長く開いた手

時間が広がり、仕事が静けさになる場所

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チャンタンの夏は休暇の季節ではない。ほぐれ、という感じだ。冬の圧縮のあとで、高原は握りを少しだけ緩め、命が広がる余地をつくる。日が長くなる。光は遅くまで残り、空の青はあまりに澄んでいて、こちらの思考まで見透かされているように感じることがある。

夏の営地でも仕事は途切れない。ただ、そのテンポが違う。動物はより広い地面に散り、人は長い距離を歩いても、いつの間にか歩いている。冬ほど空気が体を罰さず、作業の縁がそれほど切迫していないからだ。乳の匂いが、よりはっきりと存在する。手に、布に、容器の内側に。冷たい水でさっとすすいでも、決して本当に「きれい」だとは感じない、その内側に。リズムは、搾乳し、見張り、繕い、ものがずれていく前に小さなものを所定の位置へ戻すこと――「内側」がない場所で家の秩序を保つようなことだ。

高原が穏やかに見えるときほど、特有の注意が要る。夏は人を柔らかくしてしまう。風は突然来る。雲が太陽を横切ると、気温は個人的な攻撃のようにぶっきらぼうに落ちる。誰かが黙ってスカーフを直す。体は文句を言う前に学んでおくべきだ、というふうに。子どもたちは「そこにいる」ことで学ぶ。ロープを扱い、動物のあとを追い、物を取りに行き、ただ頑固な動物と病気の動物の違いを吸収する。教えはめったに形式張らない。必要とされ続ける、その露出が教えになる。

夕方、動物が近くに集められると、音は家の音になる。鈴、低い呼び声、石に当たる蹄の擦れる音。糞の火の煙には、甘く乾いた縁がある。髪や布にまとわりつき、夏そのものの匂いの一部になる。もしチャンタン牧畜を動く町だと考えるなら、ここがいちばん「近所」らしく感じられる時間だ。互いの声が届く距離にいて、同時に、私生活を守れるだけの間隔もある。

冬:まとまり続ける技術

圧縮、保護、そして温かさの規律

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冬は単なる季節ではない。権威だ。あらゆるものの尺度を変える。距離は高くつく。水は、何度も解決し直さねばならない問題になる。小さなミス――何かを湿ったままにする、作業時間を読み違える――は、危険だと名乗り出なくても危険になりうる。

冬の営地では世界が縮む。美しさではなく、機能として。人は可能なものを近くへ集める。燃料、食料、動物、道具、そして心が恐れへ迷い込まないための小さな習慣。建築は締まっていく。壁は永続のためではなく、遮蔽のために作られる。石は忍耐強い実用性で積まれ、隙間は埋められ、端は手で確かめられる。テント布は、生存と露出のあいだの膜になる。人がそれに触れる仕方に、それがわかる。指先で弱さを聴き取るように触れる。

ここでは、「留まる」ことが仕事だ。受け身ではない。持っているものと、使えるものを数えること。動物の呼吸を見張ること。冷えがその音をどう変えるかを聴くこと。不注意な隙間から入ってくる風の、ゆっくりした盗みを防ぐこと。冬の高原は劇的な白ではない。灰色と硬い青の連なりで、塩と影でできているような世界だ。小さな日だまりでさえ尊く思える。石を少しだけ温め、予想より長く身を寄せて座れるようにしてくれる、その日だまりを。

ある午後、嵐が立ち上がり始めたとき――芝居がかったものではなく、ただ風が増し、光が平らになっていく最初の兆し――私は営地の空気がどれほど早く研ぎ澄まされるかを見た。パニックはない。だが、はっきりとした集団の引き締まりがある。物が固定され、動物が近くへ寄せられる。長い反復で鍛えられた仕組みが、より守りの形へと滑らかに変形していくようだった。チャンタン牧畜は、長く驚いたままではいさせない。早く気づく人間へと、あなたを教えていく。

働く配置としての家族

動く人、支える人、危険を読む人

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外から見ると、家族の役割は固定され、硬直した「伝統」のように思いたくなる。だがチャンタンでは、役割は物流のように感じられる。力、経験、脆さを実用的に配分した結果だ。動物とともに動くのが誰で、営地に残るのが誰か――それは年齢や性別だけの問題ではない。誰が何を運べるか、誰が壊れたものを直せるか、誰が長い見張りに耐えるか、誰が何時間歩いても持ち分を燃やし尽くさないか、という問題だ。

決定を支配するのは、労力の経済だ。膝が痛む人でも、残るのに最適な場合がある。知識が脚ではなく注意に宿っているからだ。天候の変化が本物か、雲の気まぐれに過ぎないかを知っている。若い人が重い歩きを担うことはあっても、それで「指揮官」になるわけではない。権威が座るのは、たいてい、最悪の年を見ていて、しかもそれがどう始まったかを正確に覚えている人だ。

印象的だったのは、この配置がほとんど言葉で説明される必要がないことだった。人は親密さに似た流暢さで作業の中を動く。求められる前にロープが手渡される。正しい瞬間に器が火のそばへ置かれる。日はリストに分割されるのではなく、体が覚えている連なりへと分割される。ここには静かな知性がある。しかも演出ではない。年を可能にし続けるための知性だ。

もし優しさがあるなら、それは横から現れる。誰かが十分に暖かいかを確かめる視線。子どもが大げさなふるまいなしに火へ少し引き寄せられること。扱いにくい動物が、堅さはあっても残酷さなく扱われること。家族は社会単位であるだけではない。高原の条件を学び取ってきた「働く配置」なのだ。

仕組みのパートナーとしての動物

聴くこと、交渉すること、制御できないものを受け入れること

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動物を単なる資産として考えるのは、この関係を誤解することだ。動物は飾りではない。仕組みが存在する理由ではあるが、同時に、意志を持つ参加者でもある。脆さもあり、小さな反抗もある。チャンタンの牧畜は連続した対話だ。人の意図と動物の衝動のあいだ、あなたが望むことと、群れが許すことのあいだの対話。

音の風景は合図で満ちている。動物が速度を変えると鈴の音色が変わる。石に当たる蹄は、どれほど不安かを告げる。群れの一角が急に静かになることは、騒がしさより情報量が多い場合がある。牧畜の人は全身で聴く。「仕事」と「知覚」を分けない。動物が道を拒むとき、その拒み方が読まれる。頑固さか、恐れか、病か、足場のより良い知識か。制御は決して絶対ではなく、最良の牧畜の人たちは、それを恨みとして抱え込まない。

生と死は演説にならない。天候と同じように季節の布へ折り込まれる。優しいときもあり、残酷なときもあり、いつも現実だ。私は、生まれたばかりの動物が、迅速で温かな手際で扱われるのを見た。こすられ、持ち上げられ、支えられ、そしてすぐに日の流れへ戻される。弱さに向けられる注意も見た。あらゆる結果を上書きできるふりをせずに介入しようとする注意。喪失は美化されないが、無視もされない。足りない道具のように、早く燃え過ぎた火のように、計上される。

だからこそ、「冒険」という言葉はここではずれる。チャンタンの牧畜は危険を求めることではない。危険を管理することだ。毎日、静かに、拍手という報酬なしに。動物はあなたに謙虚さを教える。あなたの物語のために演じてはくれないからだ。

ロマンのない道

なぜ「ルート」は物語にならないのか

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人はときどき、贈り物でも差し出すかのように、牧畜の人たちがどのルートを通るのかを私に尋ねる。地図の線が欲しいのだ。名前の順番が欲しいのだ。けれどチャンタンでは、ルートは要点ではない。道は、足と蹄がどこかへ行かねばならないから存在する。必要が地面に刻み込む摩耗として現れ、必要がずれると消えていく。

ルートは常に調整される。湿りすぎた地面は避けられる。雪が少ない斜面が選ばれる。動物が落ち着かないから迂回する。もしどうしても地図が欲しいなら、それは遠目には劇的に見えない判断の連なりとして書かれている。高原は、横切ることで征服されるのではない。日々、小さな修正を積み重ねて交渉される。

天候が最深の権威だ。謝らずに計画を変える。数日待たせ、次の瞬間には不都合に感じるタイミングで動けと要求する。空を顔のように読むことを学ぶ。記号の集合としてではなく、生き物として気分が動くものとして読む。風には「本気」のとき特有の音がある。雪には違う質感がある。粉雪はあらゆる隙間に漂い込む。クラストは数歩ぶんは持つのに、次で信頼を折る。日差しでさえ欺く。暖かさをくれ、雲が通ると突然奪う。まるで扉を閉めるように。

それでも、チャンタンの牧畜は静かに実務的なままだ。これは称賛されるべき苦難の物語ではない。続けていく方法を学んだ配置なのだ。

シドニー・モレルは、Life on the Planet Ladakh の物語の声であり、ヒマラヤの暮らしの沈黙、文化、しなやかな強さを探るストーリーテリング・コレクティブを率いている。