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峡谷が空を飲むとき / ラダック、ザンスカール川からインダス川へラフティング

川が私たちの名前をさらった日

シドニー・モレル著

水に触れる前のレー

乾いた空気、ゆっくりした呼吸、そして最初の静かな掟――順応しなければ代償を払う

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レーは、声を荒らげずに条件を教えてくる。最初の朝、光は澄んで硬質にやって来る。まるで石を通して濾されたかのように。空気が薄いのは、ドラマチックというより実務的な薄さだ。セーターを羽織ろうと立ち上がっただけで、肺が小さな間を求めるのがわかる。市場の近くの通りではスクーターが埃の中を縫い、店主たちはシャッターを持ち上げ、低い壁の向こうのどこかでやかんが一日の始まりを告げる。すべては動いているが、すべてがほんの少しだけゆっくり動く。

ザンスカールでのラフティングが「賭け」以外の何かになる前に、あなたは待つ。水を飲むことが活動になるまで飲む。食事は淡く保つ。歩くが、急がない。ここは突然の負荷をかける場所ではない、と身体が学ばなければならない。そして川は、後になって、避けられたはずの頭痛と交渉してはくれない。

人は冒険のイメージを抱いてレーにやって来るが、順応こそが、これからの日々を楽しめるか、ただ耐えるだけになるかを決める、地味なパートだ。ホテルの中庭で新しいカメラレンズを山に向けて試す人がいる。別の人は、何かを見つめるでもなく、茶を片手に静かに座っている。ガイドは谷のもっと下流のどこかから電話を入れ、全員が十分に水を飲んでいるか、眠りが浅かった人はいないか、吐き気はないか、些細な作業さえ重く感じさせる鈍い眼窩の圧はないかを確認する。それはケアの演技ではない。ロジスティクスだ。

夕方遅くになると、町の輪郭はやわらぐ。太陽の熱が顔に当たるのを感じる一方で、日陰では指先がすぐに冷える。乾燥には粉のような手触りがある。舌の上に埃が沈む。夜、犬の声と遠い笑い声が聞こえ、やがて静けさが戻る。この時点で川はまだ名前でしかない――ザンスカール、インダス――だが、身体はすでに、高所の冷水という仕事に向けて準備を始めている。

小さな儀式のように並べる装備――ネオプレン、ストラップ、リバーシューズ、そして迷い

多くの旅の物語では、道具は崇拝されるか、すっと飛ばされるかのどちらかだ。けれどこの旅では、道具は真ん中に居座る。避けられない。ネオプレンには、かすかにゴムと保管の匂いがある。ウェットスーツに脚を通すと、それは正直な執拗さで肌をつかむ。快適ではないが、正しい。ヘルメットは山積みの中で互いにカチカチと当たる。PFD――川の人たちの言葉でライフジャケット――は、バックルがきちんと噛み、ストラップが滑らず締まるかを確認する。

後で重要になる小さなことがある。水を溜めずに抜く靴。ほぼ、ではなく確実に密閉できるドライバッグ。パドルシャフトの感触を残しつつ、握りをあざにしない手袋。汗をかいた途端に溶け落ちない日焼け止め。リップバーム。キャンプで、湿った肌の上からでも貼りつかずに羽織れる軽い一枚。

川の冷たさは詩的な冷たさではない。測定できる冷たさだ。氷と雪解け、峡谷の影が保冷庫のように水を冷やし続ける壁から来る。人は「氷河の水」と言って、それを純粋さの比喩のように扱う。ここではそれは指示だ。手が最も必要なときに機能を止めないように、あなたはその冷たさに合わせて着込む。

迷いは日常的な形でやって来る。ストラップは緩すぎないか。膝はラフトのフロアチューブの下に収まって攣らないか。もし何かが起きたら、この高度で泳げるのか。質問は大げさではなく、誰も虚勢で答えない。ライフジャケットが耳のあたりまでずり上がらないよう、肩のストラップの締め方を見せてくれる人がいる。水筒を逃げない場所に差し込むやり方を示す人もいる。こうして川へ運ばれていく、この旅のトーンは、静かな有能さ――勇気というより準備だ。

川が「手に入れたもの」に感じられる道

レーを出て、快適さを距離へ交換する――峠、埃、長いほどけていく時間

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レーを離れるドライブは、望むと望まざるとにかかわらず、ラフティングの一部だ。町の生活から川の生活へ移る、ゆっくりした変換。最後のパン屋、最後の安定した通信、そして水を節約しようと考えずにシャワーを浴びられる最後の夜。道は、ぱっと見は空っぽに見える景観の中を引っぱっていく。けれど目を凝らすと、ここで人がどう高所と折り合いをつけてきたかが見えてくる。あり得ない形の長方形の畑、風を押し戻す石垣、冬に背を向けるように寄り添う家の小さな塊。

登って、下って、また登る。高い峠では空気がいっそう鋭く、太陽が近い。トラックはアイドリングし、祈祷旗ははためき、色褪せていく。道が砂利の糸のように細くなる区間があり、運転手はクラクションと手振りの忍耐強い振り付けで対向車をやり過ごす。路肩の茶屋では、金属のポットから甘いチャイがガラスのコップへ注がれ、指が熱で痛む。その温かさは即効で、そして短い――好意のように。

後部座席では、身体が長時間じっと座ることを学び始める。膝がバッグに当たり、水筒が転がる。気を紛らわせるもののない旅には独特の疲れがある。ずっと保てる音楽もない。追いつける速さで撮り続けられる景色もない。なぜこの地域の川の遠征が「アクティビティ」ではなく「旅」と呼ばれるのか、少しずつ理解していく。川は空港の隣にはない。僻地へ入り込む一日、時には二日分の移動があり、その距離が、乗り入れの場所で受け取る次の指示の聴き方を変える。帰るのが到着ほど容易ではないから、あなたはより注意深く耳を澄ます。

谷が細り、地図が噂のように感じられ始めるとき

ある時点から、道は工学的な約束というより、砂利と習慣で保たれた提案になる。谷が締まり、岩壁が迫る。下に水が見えることがある――一瞬の閃光として、あるいは薄い石の上を編むように流れる筋として。ザンスカール地方はスケールをずらす力を持つ。村は、茶色と灰色の世界に浮かぶ一握りの緑として現れ、立ち止まるまで、ここで生きるための労力の大きさを忘れやすい。

道端の生活は必需品まで削ぎ落とされている。小さな店はビスケットと即席麺と電池を売る。誰かが杏を布の上に並べ、日に干している。実はきれいに割られ、種は手慣れた速さで抜かれている。ロバが、重すぎるはずの荷を運ぶ。子どもが車の通過を見送り、見知らぬ人々をずっと見てきた者の落ち着いた好奇心で、何も期待しない視線を向ける。

紙の上では、ラフティングの行程は、乗り入れから上陸までの一本の線、整った一文だ。道の上では、その線が身体になる。こめかみに高度を感じ、まつ毛に埃が乗り、太陽がフロントガラスをランプに変える車内の熱を感じる。峡谷は、目にする前にここで生まれ始める。便利さが一つずつ剥がされていく接近として。川で起きることは、迅速な解決から遠い場所で起きる、という受け入れとして。

乗り入れ地点で:川には川の言語がある

安全説明、合図、そして見知らぬ人の声に命を預けて聴くという妙な親密さ

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乗り入れ地点は、たいてい映画的ではない。仕事だ。ラフトは引きずられ、膨らませられ、点検される。パドルは数えられ、ドライバッグは重量が偏らないように配置される。人々は礼儀正しく急いで着替え、背を向け、ネオプレンに足を通し、大人が転ばないようにしながらもたつく。川はその横で、あなたが到着したことなど気づいていないかのように流れている。

そして説明が始まる。長くはないが密度が高い。座り方を学ぶ。足の置き場、どう体を楔のように固定するか――思いがけない飛翔体にならないために。手首が負荷でねじれないようなパドルの持ち方を学ぶ。号令――前、後ろ、止まれ――そして音にかき消される中で叫ばれる可能性を学ぶ。落水した場合の行動を学ぶ。ドラマなしで語られるのは、ドラマが時間を浪費するからだ。

「もし泳ぐことになったら、足を上げて、ラフトを探して、指示を聞いて。流れに逆らわない。流れと一緒に動く。」

不思議なものだ。これだけで小さな社会が立ち上がる。十分前まで、あなたたちはフライトや天気の世間話をする他人だった。今は同じ合図を学び、同じルールに同意している。親密さは感情から生まれるのではない。共有されたリスクと、共有された注意から生まれる。

誰かがヘルメットのあご紐を一本ずつ確認し、顎の下でしっかり締める。別の誰かがPFDの肩を押さえ、ジャケットが耳のあたりまで浮き上がらないか確かめる。ガイドは、肩の痛み、膝のこわばり、何でもいいから、三時間のパドリング後に効いてくるものがないかを尋ねる。小さな質問だが、あなたの身体もラフトと同じく、川が試し始める前に正しくセットされねばならない、というメッセージを運んでいる。

最初の接触:氷河の衝撃、咳のように聞こえる笑い、手がパドルを覚える

ラフトがザンスカールへ滑り込むと、冷たさはスーツ越しにやって来る。痛みというより、突然で否定できない事実として。水は手首から、ときに首元からしみ込み、身体は鋭い吸気で反応する。文学的に「生きている実感」などという整った感想ではない。呼吸を制御しなければならない、という即時の必要を感じる。指はパドルシャフトをきつく握る。誰かが笑い、その笑いは短く途切れて出る。反射であり、同時に自分を落ち着かせる試みでもある笑いだ。

最初のストロークはぎこちない。ラフトは思ったよりゆっくり回り、そして思ったより速く回る。水がチューブに当たる音は、濡れた布を石に叩きつけたようだ。ガイドは全体が見える位置に座り、声の高さを保ったまま号令を出す。前へ。キープ。後ろ。ラフトは白黒ではなく段階で反応し、ここでのラフティングは支配ではなく読解と調整なのだ、と理解し始める。

景色は絵葉書のように提示されない。近い。川が近い。岩が近い。ある区間では澄んだ水越しに川底が見える。白い石があなたの下を滑っていく。やがて流れは厚く、暗くなり、ラフトは少し持ち上がる――速さに運ばれて。パドルは手の中で重さを持ち始める。物体としてだけでなく、正しい瞬間に正しい場所へ落とさねばならない道具として。

三十分もすると、最初の衝撃は作業温度へと落ち着く。スーツが役目を果たしている部分と、水が入り込んだ部分がわかる。太陽がヘルメットの上を温めるのに気づく。川の合図も見分けられるようになる。流れの舌を示す滑らかなV字。ホールを示す煮え立つ表面。会いたくない岩を告げる白い線。ロマンではない。没入だ。

ザンスカールの機嫌を覚える

句読点としての急流――滑らかな線、突然のカンマ、そして終わらない文

ザンスカールは、会話を許す区間と、全員を黙らせる区間の間を行き来する。穏やかな水では小さな音が聞こえる。パドルの滴り、ラフト素材のきしみ、カラビナのかすかな鳴り。誰かが崖を横切る鳥を指差す。誰かがストラップを直す。水を一口飲むと、ボトルのプラスチックの味と、口の中の鉱物のような乾きが混ざる。

そして急流が来る。ラフトは別のふるまいを求められる。ガイドは目と姿勢で接近を読む。号令は速くなる。パドルは噛む。水は前方チューブをシーツのように越え、すねを叩き、膝の上に跳ねる。ラフトは大きく揺れる。危険というほどではないが、足の置き方がなぜ重要かを理解するには十分だ。ここでチームワークが目に見える。一人がストロークに遅れると、それがラフトの角度に出る。片側が強く掘りすぎれば、意図より回ってしまう。協調は相性というより、同じ瞬間に注意を向けることだ。

川の「機嫌」は神秘ではない。勾配、水量、岩、狭窄がつくる結果だ。この高度では疲労も方程式に入る。肩が固くなるのに気づく。前腕が燃え始めるのに気づく。ラフトの上では、海抜ゼロの場所よりも頻繁に水を飲む。冷たい空気の中では脱水が静かに来るからだ。ガイドは、空腹を感じなくても何か食べるように促す。単純な助言で、重要だ。峡谷での低血糖は可愛げがない。

日が進むにつれ、パドルを物体として考えるのをやめ、タイミングとして考え始める。号令を先読みするようになる。問題――波や岩――を見つめず、行くべき場所を見る、という小さな規律を学ぶ。それは、ラフトが水から上がった後にも残る種類の学びだ。

壁が立ち上がる:峡谷へ入る

積み重なった色の岩壁――錆、紫、灰――太陽の角度ごとに変わる

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峡谷が本格的に始まる瞬間がある。肋骨でそれを感じる。壁が近づき、空は上の細い帯になる。川は、開いたリボンから回廊へ変わる。岩は一色ではない。層があり、層は時間のように読める。錆色の帯、灰色の板、ある角度の光でだけ現れる紫の下地。影では色が平らになり、陽が当たるとまた分離する。

誇張なしで説明するのは難しいので、実際の効果を述べたほうがいい。先を見るのをやめ、上を見るようになる。落石が残した淡い粉塵の新しい傷が見える。水が磨いた滑らかな石の面が見える。小さな棚を過ぎる。ヤギの踏み跡があるかもしれないが、動物が見えるとは限らない。

音もここでは違うふるまいをする。開けた谷では川の音は散る。峡谷では跳ね返る。百メートル先の急流は、連続した轟きとして聞こえる――波の連なりとしてではなく。声は小さくなる。ガイドの号令は明瞭なままだが、雑談は役に立たなくなる。声を張り上げねばならず、その必要がない。人々は見る。水を見る。ガイドの視線を見る。壁に対するラフトのラインを見る。

峡谷では温度が局所的になる。陽の当たる斑は顔に温かい。影は熱を奪う。ウェットスーツは体幹を保つが、手は空気と飛沫にさらされる。急流の合間に指を動かし、反応性を保つことを覚える。峡谷は小さな単位で注意を教える。擦れ始める濡れたストラップ、靴の中の小石、水に囲まれていても口が乾くという感覚。

絞り込みの日

岸からの下見:ヘルメットを外し、表情が硬くなり、川がルートを決める

儀式なしで越える急流もあれば、立ち止まりを求める急流もある。多くのザンスカール行程で最も厳しい区間は、まず徒歩で近づく。ラフトはエディに入れられ、人々は滑らないように岩へ上がる。ラフトの動きから離れた場所で、峡谷の静けさが目立つ。濡れた石の匂いがする。川が狭い水路へ押し込まれ、加速し、自分自身に積み上がっていくのが見える。

ガイドたちは岸沿いに下流へ歩き、最もクリーンなラインを探す。指をさし、短い言葉で話す。立って見ると、ラフトの上よりも地形がはっきり見える。間違って当たればひっくり返す落ち込み。通せるかもしれない舌の流れ。必要なら立て直せる回復の淵。そこに虚勢はない。評価だけがある。

乗り手には、いつもより具体的な指示が渡される。どう傾くか、いつ漕ぎ続けるか、いつ漕ぐのをやめて掴むか、誰かが放り出されたらどうするか。あなたは自分の身体をまた意識する。ヘルメットのあご紐が顎の下に食い込む感覚。膝がラフトにどう踏ん張るか。ここでは、川はだらしない姿勢を許さない。小さなミスをすべて増幅する。

多くの旅の物語では、危険は飾りとして使われる。ここではそれはシステムの一部として扱われる。目的は怖がることではない。準備することだ。ラフトに戻ると、空気は緊張というより集中になる。川は変わっていないが、あなたの注意は峡谷に合わせて狭まっている。

濡れた靴下で縫い合わされるキャンプ生活

ネオプレンを剥がし、皮膚が戻り、紅茶が慈悲の味になる

キャンプも乗り入れ地点と同じ静かな効率で整えられる。川の届かない高さの平らな地面が選ばれ、テントが立ち、キッチンタープが張られる。誰かが鍋に水を入れ、別の誰かが、空腹が問題になる前に食べるための軽食を並べる。ビスケット、果物、塩気のあるもの。ラフトの装備はできるだけ乾くように積まれるが、「乾く」は峡谷では相対的だ。

冷水の中で何時間も過ごした後にウェットスーツを脱ぐのは小さな格闘だ。生地は貼りつく。冷えで不器用な指が縫い目を探して引く。脱げた瞬間、空気が肌に当たり、スーツが残した圧の跡に気づく。靴下は湿っている。手は川とネオプレンの匂いがうっすらする。柔らかい服に着替えると、身体のモードが切り替わる。演じる状態から、回復する状態へ。

キャンプの紅茶は美的ディテールではない。実務だ。両手で温かいカップを抱えると感覚が戻る。湯気は単純な匂いを運ぶ。紅茶、ときに生姜、ときにただの湯と葉。それを無言で飲む。近くでは誰かが靴下を絞り、朝までほとんど意味を成さないロープに干す。誰かが水ぶくれを見ている。誰かが寝袋を夕陽に広げ、湿気を追い出そうとしている。

食事は質素で、ありがたい。ダルの鍋。米。流通が持ちこたえていれば野菜の何か。明日も腕が求められるから食べる。高度では食欲が当てにならないから食べる。峡谷では、身体が丁寧に頼んでこなくても、身体に餌をやることを覚える。

夜:峡谷は冷たさを抱え、空は星を返す

太陽が峡谷の壁の向こうへ落ちると、気温はすぐに下がる。川は下で仕事を続け、その音は暗がりで大きく感じられる。歯を磨く水は歯茎に痛いほど冷たい。ジャケットのジッパーを上げる。息が一瞬白くなって消えるのを見る。

街灯のない空は、ぼんやりした光ではなく点の群れになる。星はここではインスピレーションではない。ただ、とにかく多い。目が慣れると天の川が淡い帯として見える。誰かが星座を指差し、間違え、言い直す。ヘッドランプが揺れる。キッチンのあたりで金属の鍋が置かれ、暗闇には明るすぎるほどの小さな響きがする。

他の音にも気づく。ジッパーの擦れる音、寝袋のカサつき、何かを開ける小さなパリッ――ナッツかもしれない、後のために取っておいたビスケットの袋かもしれない。川の轟きは一定で、それが背景として残るせいで、他のものが近く、家のように感じられる。

テントの布は、陽に温められた埃の匂いがする。マット越しでも地面は硬く、腰と肩が落ち着く位置を探す。峡谷は冷たさを抱え、川の人たちが睡眠をもう一つの準備として扱う理由がわかる。明日の急流は、あなたが夜更かしして話し込んだかどうかなど気にしない。

川が強制するからこそ出会う人々

ラフトクルーの静かな振り付け――誰がストラップを確認し、誰が天気を見て、誰が最後に冗談を言うか

ラフティング遠征は動く集団で、その社会構造は宣言ではなく動作に現れる。あるガイドは必ずバックルを二度確認する。別のガイドは川面と風を見つめる。小さな手がかりを読むように。コックは、人々が冷え始めるその瞬間にお茶を持って現れる。誰かが、誰が食べたか、誰が飲んだか、誰が「恥ずかしがり」ではなく頭痛で静かになっているのかを把握している。

ラフトの上では、パドリングのリズムが独自の親しみを作る。誰が強く引き、誰が協調に一拍必要で、誰が号令を丁寧に聞くかがわかるようになる。ある種の癖を信頼するようにもなる。号令を出す前に下流を見渡すガイド。毎回同じ仕草でヘルメットのあご紐を締める人。ここでの信頼は感傷ではない。反復で獲得される。

ときどき川は、他の暮らしの近くへあなたを連れていく。高い小道に人影が見え、動物とともにゆっくり移動している。石だらけの地から作物を引き出した小さな緑のパッチを過ぎる。誰もいないこともあり、その不在が別の形の存在感になる。峡谷は、あなたの娯楽のために存在する場所ではない。

残るのは演説ではなく、小さなやり取りだ。言葉なしに予備の手袋を渡してくれるガイド。慎重に四角へ割られたチョコレートを分け合う誰か。濡れた波が全員を一度に打ち、ラフトが一瞬、滴る見知らぬ人々の集まりになって、皆が瞬きをして咳をし、それでもすぐにまた漕ぎ出す瞬間。川は長い自己紹介を許さない。先に互いを役に立つ存在にし、それから友だちにする。

川の時間:待つ、動く、繰り返す

宙吊りに感じる時間――時計ではなく筋肉で数えるパドルストローク

川の上では、時間の形が変わる。動いている。しばしば速い。それでも峡谷の壁と繰り返されるパドリングは、宙吊りのような数時間をつくる。一日の構造は名前の付く地標では測れない。連なりで測られる。穏やかな区間、急流、穏やかな区間、急流、エディで停止、軽食、再開。

川での「待ち」は受動ではない。ガイドが先を下見するあいだエディに留まることがあり、流れがラフトを引くので身体は踏ん張り続ける。誰かがドライバッグを調整しているあいだゆっくり漂うこともある。別のラフトが先に区間を下るのを待ち、彼らの歓声と川の返事を聞くこともある。待つことも仕事の一部になる。暖かさを保つこと。注意を保つこと。遅れなくまた漕げる準備を保つこと。

冷たい空気では、喉の渇きは欺く。汗が目立たないので飲み忘れる。ガイドの注意はルーティンになる。水を一口、何か食べる。身体の帳簿は小さな兆候で見える。唇のひび、手の擦れ、肩の硬さ、急な落ち込みでラフトチューブが骨に当たってできたすねのあざ。どれも劇的ではない。高所で何時間も動くためのコストだ。

あとで思い出すのは、身体の反復だ。濡れた手袋越しのパドルシャフトの感触、いつも顔の同じ場所に当たる飛沫のパターン、特定の急流でラフトに当たる水の音、考える前に筋肉が反応するようになる感覚。川の時間は哲学ではない。身体に書かれる時刻表だ。

ザンスカールがインダスに出会う場所

合流点という蝶番――二つの水の色、二つの速さ、そして世界が急に広がる瞬間

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多くのザンスカールの旅には、章が変わるように感じる瞬間がある。インダスとの合流点への接近だ。峡谷はほどけ始め、空は広がる。水のふるまいが変わるのがわかる。最初は微妙に――表面の渦、手触り――そして二つの川が、すぐには一つにならずに一緒に動くのが見えた瞬間、はっきりと。

合流点での色は、季節や直近の天候によって異なる。一方は澄み、もう一方はシルトで濁ることもある。どちらも、それぞれの歴史を下流へ運ぶ。名付けられ、何度も撮られてきた場所をラフトで通過しながら、そこにある意味は実務的だ。航行のポイントであり、心理的な目印であり、自分の道筋が実在し、方向を持っていたという確認になる。

写真を撮りたくなるし、実際に撮る。けれど、もっと静かなふるまいもある。見ることだ。流れがどう編まれていくかを見る。壁に圧縮されていた世界が緩み、川幅が広がるのを見る。音が変わるのを見る――まだ大きいが、囲われず、石に増幅されない。足元のラフトが別の動きをするのを感じる。水に別の重さがあるように。

多くの人にとって、ここで「ザンスカールからインダスへラフティングする」という言葉が、計画表の一行以上になる。観察できる事実になる。あなたは一つの川を辿って別の川へ入った。そして風景は、その移行を言葉抜きでわかるほど明瞭に刻んだ。

上陸後:肌に残るもの

塩の筋、湿った髪に乗る埃、すべてに残る川の匂い

上陸地点もまた、映画的ではない。ラフトは岸へ引き上げられ、パドルは積まれ、人々は慎重に降りる。長時間同じ姿勢で踏ん張っていた脚は少し心もとない。川は、あなたの出発を認めることなく流れ続ける。それもまた有益だ。あなたの経験は一時的だったが、川の仕事はそうではない、と思い出させるからだ。

ヘルメットを外すと髪はぺたんと潰れて湿っている。空気がそれをすぐ乾かし、川の水と埃が混ざってゴワつく。飛沫が乾いた塩の筋が袖に見える。手は濡れたロープとネオプレンの匂いがする。小さな擦り傷が指の関節や前腕に現れる。日中は注意が別の場所にあったので気づかなかった種類のものだ。

人々は少しずつ話し始める。川が感傷を生んだわけではない。短い号令の必要が過ぎたからだ。誰かが身振りで急流を語る。ラフトの角度、当たった波、取り損ねた一打。その物語は英雄ではなく順序について語る。これが起きて、次にこれ、そしてこれ。人が「リスクが収まったあと」にそれを処理する方法だ。

実務はすぐ戻る。濡れた装備を詰め、ドライバッグの漏れを確認し、誰かがヘルメットを数える。別の誰かが失くした手袋を探す。車が待ち、再び埃と道路が始まり、身体は川の姿勢から移動の姿勢へ切り替わっていく。それでも川は小さな痕跡で残る。爪の下の砂、肩の奥のかすかな痛み、川のそばにいなくても耳に残る水音。

レーへ戻る――肋骨の内側に川を抱えて

熱いシャワーの衝撃、静かなベッド、目を閉じたときに足りない轟き

レーへ戻ると、当たり前が妙に具体的に感じられる。熱いシャワーは単なる快適ではない。対比だ。熱が肌に当たり、冷たさがどこに住みついていたかがわかる。手首の内側、指の間、鎖骨の下。最初の清潔な服は柔らかすぎる。最初のベッドは動かなすぎる。眠り、目覚め、また眠る。まるで身体が借りを返しているかのように。

町は以前と同じ穏やかなリズムで続いている。店主は干し果物を並べ、カフェでは誰かがスマートフォンをスクロールしながらコーヒーを飲み、犬が日なたに寝そべる。川は別世界で、ここには触れていないように思えるかもしれない。けれど身体は証拠を運んでいる。膝にあざが浮かび、手のひらの水ぶくれが固くなり、バッグを持ち上げると肩がゆっくり動けと言ってくる。

川はレー周辺の風景の見え方も変える。水をより注意深く見るようになる。道路を横切る小川、畑へ向かう用水路、斜面が雪解け水を抱えたり放したりする仕方。ここで人々が水を「当然のもの」ではなく「管理されるもの」として扱っているのに気づく。斜面から家々へ伸びるプラスチックのパイプ。扉のそばに置かれ、いつでも使えるバケツ。抽象はない。日々の生活だ。

最後の夕方、あなたは屋上か、町の上の小さな高みに上がる。空気はまだ乾いている。光がまた薄れる。どこか稜線の向こうで、ザンスカールはインダスへ入り、さらに先へ流れ続ける。ここからは聞こえない。その不在が別の思い出になる。峡谷の轟きはサウンドトラックではなかった。物理的な環境だった。いま静けさが戻り、それは平和でも喪失でもない。場所が本来のスケールへ戻る感覚だ。

シドニー・モレルは「Life on the Planet Ladakh」の物語の声であり、ヒマラヤの暮らしに宿る静けさ、文化、そしてしなやかな強さを探るストーリーテリング・コレクティブを率いている。